誰が誰を騎士にしたか
誰が誰を騎士にしたか
12世紀の騎士叙任は、剣帯を授ける者と授かる者を結ぶ儀式である。年代記の定型句は militem fecit(騎士にした)、accinxit gladio(剣を帯びさせた)、cingulo militari donatus(騎士の帯を授けられた)といった形をとる。誰がその剣を帯びさせるかは、新騎士の格と、そこに生じる政治的・主従的な結びつきを同時に示した。
ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの息子たちの叙任を、一次史料に基づいて年長順に確認する。誰が彼らに剣を授けたのかを並べると、長男から末子まで一様ではないことがわかる。
なお、息子たちを叙任する側となるヘンリー2世自身も、かつては他国の王母方の大叔父スコットランド王デイヴィッドにより騎士叙任されている。
若ヘンリー王:父ヘンリー2世、戴冠と同日
長男の若ヘンリー王の叙任は、1170年の共同戴冠と結びつく。ジャーヴェス・オブ・カンタベリーは、父ヘンリー2世が戴冠と同じ日に息子を騎士に叙したと記す。
Ipsa die Henricum filium suum militem fecit, et subito stupentibus cunctis precepit coronari, in prejudicium Cantuariensis ecclesiæ et inhibitionem Alexandri papæ.
(同日、王は息子のヘンリーを騎士に叙し、周囲が驚く中、カンタベリー教会の権利を侵害し、教皇アレクサンデルの禁止令を無視してまで、直ちに彼を戴冠させるよう命じた。)
——Gervase of Canterbury, Historical Works, p.205
叙任と戴冠が一続きの儀式として、父の手で同日に行われた。若ヘンリーは騎士となると同時に「共同王」となったのである。
ただし13世紀の顕彰伝記『ウィリアム・マーシャル伝』は別の場面を伝える。1173年の反乱開戦時に、若王が家臣ウィリアム・マーシャルの手から騎士になったというのである。
L'espée li ceinst voluntiers, / Sil baisa; lors fu chevaliers.
(マーシャルは喜んで剣を帯びさせ、接吻した。こうして若き王は騎士となった。)
——Histoire de Guillaume le Maréchal, t.1, p.91
主君が家臣の手から剣を受けるという、通常の序列を反転させたかのような場面である。同じ伝記は、若王が本来はフランス王に最初に剣を帯びさせてもらうことを望んでいたとも記す(同 p.92)。叙任年については、戴冠と同日とする同時代年代記(1170年・父による叙任)を基準とすべきで、マーシャル伝の1173年・マーシャルによる叙任は、マーシャルという主人公に最高の栄誉を帰す伝記の脚色か、反乱開戦時の再帯剣とみる余地がある。
リチャード:フランス王ルイ7世
次男リチャードの叙任は、兄弟のなかで唯一、父以外の手によるものであった。授けたのはフランス王ルイ7世である。ロジャー・オブ・ハウデンの『年代記』は1173年の項に簡潔に記す。
Eodem anno Lodowicus rex Francorum fecit Ricardum filium Henrici regis Angliæ militem.
(同年、フランス王ルイは、イングランド王ヘンリーの息子リチャードを騎士に叙した。)
——Roger of Howden, Chronica, t.2, p.169
1173年、若ヘンリー王は父ヘンリー2世に反旗を翻し、フランス王ルイ7世の宮廷へ逃れた。弟リチャードとジェフリーもこれに加わり、母アリエノールも息子たちを支持する。アリエノールは彼らのもとへ向かおうとして捕らえられ、この反乱を機に長い拘束生活へ入ることになった。
この反乱のさなか、リチャードはルイ7世から騎士叙任を受けた。父ヘンリー2世ではなく、母の前夫であり、父の敵でもあるフランス王の手から剣を受けたのである。兄弟の中でこのような叙任を受けたのはリチャードだけであり、その政治的な響きは小さくない。
ウォルター・オブ・コヴェントリーの並行記事も、ルイ7世が「アキテーヌ公リチャードに騎士の武具を授けて栄誉を与えた(honoravit armis militaribus)」と伝える(Memoriale, t.1, p.283)。
ジェフリー:父ヘンリー2世
三男ジェフリーは1178年に父ヘンリー2世から叙任された。ハウデンは叙任の場とその後の鍛錬を続けて記す。
Rex vero post prædicti archiepiscopi recessum, Gaufridum filium suum, comitem Britanniæ, militem fecit apud Wdestokam; qui statim postquam arma militaria susceperat, in Normanniam transfretavit, et in finibus Franciæ et Normanniæ, et in aliarum terrarum finibus, militum conflictibus aptis et statutis, vires suas exercuit… et eo magis probitatis suæ gloriam quæsivit, quo fratres suos, Henricum regem scilicet et Ricardum ducem Pictaviæ, in armis militaribus plus florere cognovit.
(大司教の帰国後、王は息子のブルターニュ伯ジェフリーをウッドストックで騎士に叙した。彼は騎士の武器を授かるとすぐにノルマンディーへ渡り、フランスとノルマンディーの境界や他の領土で、定められた騎士の戦いに参加してその力を鍛えた。兄である若ヘンリー王とポワトゥー公リチャードが騎士としてより栄えていることを知っていたため、いっそう自身の武勲の誉れを求めたのである。)
——Roger of Howden, Gesta Regis Henrici Secundi, t.1, p.283
叙任が実戦への入口として描かれ、兄たちとの武勲の競い合いがそのまま動機として語られている。
ジョン:父ヘンリー2世
末子ジョンは1185年、父ヘンリー2世から叙任された。ハウデンは「Laetare Jerusalem」の主日(3月31日)の出来事として記録する。
…in Dominica qua cantatur Lætare Jerusalem, quæ illo anno pridie kalendas Aprilis evenit, fecit Johannem filium suum militem, et statim misit eum in Hyberniam, et inde eum regem constituit.
(「エルサレムを喜べ」と歌われる主日、その年の3月31日にあたる日に、王は息子のジョンを騎士に叙し、直ちにアイルランドへ派遣して、そこの王に任じた。)
——Roger of Howden, Chronica, t.2, p.417
叙任の直後にアイルランドへ送り出すという流れは、ジェフリーの場合と同じく、騎士叙任が任務の出発点として用いられたことを示す。父ヘンリー2世が四人の息子のうち三人を自ら騎士に叙したことになる。
フィリップ2世:叙任記録なし
アンジュー家の息子たちと対照をなすのが、同時代のフランス王フィリップ2世である。彼の戴冠・塗油(1179年ランス、1180年サン=ドニ再戴冠)は各年代記が競って詳述する一方で、彼自身の帯剣式を記す史料は見当たらない。
リゴールは、フィリップが治世初年に教会を抑圧する諸侯を討った戦いを、こう記すにとどまる。
Sed rex magnanimus primitias militie sue Deo et ecclesiis consecrare volens, congregato exercitu, eos in manu forti debellavit et libertates ecclesiis reformavit.
(しかし尊厳王は、自身の騎士としての初陣を神と教会に捧げるべく、軍を集めて彼らを力で打ち破り、教会の自由を回復させた。)
——リゴール『フィリップ尊厳王事績録』第1巻 p.193
ここで言う「騎士としての初陣(primitiae militiae)」は、叙任の儀式ではなく最初の軍事行動を指す。カペー王権にとって正統性の核は塗油(sacre)にあり、剣帯の授受はその中心ではなかったと考えられる。
アルテュール:フィリップ2世
フィリップにとって叙任は、自らが受ける儀式ではなく、他者に授ける道具であった。1202年、リチャードの没後にジョンと戦うフィリップは、ジェフリーの息子、リチャードの甥でジョンの対抗馬であるアルテュール・ド・ブルターニュを騎士に叙する。
Et in eodem loco Arturium militem fecit, tradens ei Britannie comitatum… adjiciens comitatum Pictavensium et Andegavensium, quos jure armorum sibi adquireret; et in auxilium cc milites ei tradidit cum maxima pecunie summa.
(同地で王はアルテュールを騎士に叙し、世襲の権利に基づくブルターニュ公領を与え、さらに武力で獲得すべきポワトゥー伯領とアンジュー伯領を加え、支援として騎士200人と多額の資金を授けた。)
——Rigord, Gesta Philippi Augusti, t.1, p.165
叙任に封土と軍資金、そして敵への敵対が一体で付帯している。剣帯は新騎士を主従関係へ組み込む封建的な拘束であり、フィリップはそれをアンジュー家を内側から割るために用いた。
誰の手から受けるか —叙任者は選ばれた
リチャードがフランス王ルイ7世から、ウィリアム・マーシャル伝での内容だが若ヘンリーがそのルイ7世に剣を望んだことは、誰の手から騎士になるかが新騎士の立場に関わったことを示す。この感覚は、アンジュー家の外にも見いだせる。ジルベール・ド・モンスは、わざわざ縁の薄い、しかも家門が不和の伯のもとへ叙任を求めて赴いた例を記す。
Albertus clericus, Leodiensis archidiaconus, … Godefridi ducis Lovaniensis filius, Henrici ducis iunioris frater, relicto officio clericali, comitem Hanoniensem adiit, ut eum militem faceret. Quem comes Hanoniensis, licet pater illius et frater diutius extitisset invisus, tamen eum honoris intuitu benigne suscepit, et eum honorifice Valencenis militem ordinavit.
(リエージュの助祭でルーヴェン公ゴドフロワの子、若ルーヴェン公アンリの弟であるアルベールは、聖職を辞してエノー伯のもとを訪れ、自分を騎士にしてくれるよう求めた。エノー伯は、アルベールの父や兄と長年不仲であったにもかかわらず、名誉を重んじて彼を快く迎え、ヴァランシエンヌで丁重に騎士に叙した。)
——Gislebert of Mons, Chronicon Hanoniense, p.183
聖職の身分を捨て、しかも対立する家の伯のもとへ赴いてまで、その手から剣を受けることに意味があった。叙任者は所与のものではなく選ぶことができ、誰に叙任されるかは新騎士の格や立場と結びついていた。リチャードが父ではなくフランス王から剣を受けたことも、この文脈に置くと立場の選択として読める。
叙任の所作:帯剣と接吻
ここまで引いた史料に共通するのは、叙任を表す動詞である。年代記は一貫して「剣(または剣帯)を身に帯びさせる」と書く。ハウデンは伯位の授与にも同じ語を用いる。
Eodem die coronationis suæ, Johannes rex accinxit Willelmum Marescallum gladio comitatus de Striguil… non erant accincti gladio comitatus; et ipsi illa die servierunt ad mensam regis accincti gladiis.
(戴冠式の当日、ジョン王はウィリアム・マーシャルにストリグイル伯の剣を帯びさせた。彼らは以前から伯爵と呼ばれていたが、伯爵の剣を帯びてはいなかった。その日、彼らは剣を帯びて王の食卓に仕えた。)
——Roger of Howden, Chronica, t.4, p.212
ウィリアム・マーシャル伝も、若王の叙任を「剣を帯びさせ、接吻した(L'espée li ceinst… Sil baisa)」と描く(前掲 t.1, p.91)。叙任の核は剣帯を身に帯びさせる動作(cingere gladio / accingere gladio)であり、しばしば接吻を伴う。後世の騎士叙任のイメージとして広く知られる「剣の平で肩や首を軽く叩く」所作(いわゆる accolade)を、12世紀の叙任記述に見いだすことはできない。
むしろ「打つ」を意味する語は、儀礼ではなく実戦と結びついている。マーシャル自身の叙任を、伝記はこう記す。
Li Chamberlens li ceinst l'espée / Dunt puis dona meinte colée.
(侍従は彼に剣を帯びさせた。彼はその剣で、のちに幾多の打撃(colée)を与えた。)
——Histoire de Guillaume le Maréchal, t.1, p.45
ここでの colée は、後世には叙任の際の一打を指す語ともなるが、この12世紀の用例では戦場で剣によって与える打撃を意味している。叙任で授けられた剣は、まず実戦で振るうためのものであった。儀礼としての「叩く」所作が前面に出るのは後代であり、12世紀の史料が語るのは帯剣と接吻の儀である。
叙任の宴と気前よさ
叙任は儀式にとどまらず、しばしば大宮廷での祝祭をともなった。とりわけ大陸の帝国宮廷を描く Gislebert of Mons は、叙任が贈与の場となった様子を具体的に記す。1184年マインツの聖霊降臨祭では、皇帝フリードリヒ1世の息子であるローマ王ハインリヒらの叙任に際し、諸侯がこぞって贈り物を配った。
Feria secunda pentecostes… dominus Henricus rex Romanorum et Fredericus dux Suevorum, domini Frederici Romanorum imperatoris filii, novi ordinati sunt milites, pro quorum honore ab ipsis et ab universis principibus et aliis nobilibus multa militibus, captivis et cruce signatis et ioculatoribus et ioculatricibus data sunt, scilicet equi, vestes preciose, aurum et argentum.
(聖霊降臨祭の翌月曜日、皇帝フリードリヒの息子であるローマ王ハインリヒとシュヴァーベン公フリードリヒが新たに騎士に叙任された。その栄誉を称え、本人たちおよびすべての諸侯・貴族から、騎士・捕虜・十字軍戦士・男女の芸人たちに、馬・高価な衣服・金銀が惜しみなく与えられた。)
——Gislebert of Mons, Chronicon Hanoniense, p.147
新騎士自身も、宮廷で気前よく財を分け与える側に回った。1188年シュパイアーで叙任されたエノー伯の息子ボードゥアンの例である。
…Balduinum comitis Hanoniensis filium… novum ordinavit militem cum maxima honorificentia apud Spiram civitatem; qui quidem Balduinus sua erogans in curia, militibus et clericis curie et servientibus honesta distribuit dona, scilicet equos, palefridos, ronchinos, vestes preciosas, aurum et argentum. Ioculatores eciam et ioculatrices grate ac placide remuneravit.
(ローマ王はエノー伯の息子ボードゥアンを、シュパイアーの街で最大の栄誉をもって新たに騎士に叙した。ボードゥアンは宮廷で自らの財を投じ、騎士・宮廷の聖職者・従者たちに、馬・乗用馬・駄馬・高価な衣服・金銀といった立派な贈り物を分け与えた。男女の芸人たちにも快く報酬を与えた。)
——Gislebert of Mons, Chronicon Hanoniense, p.215
馬・衣服・金銀を惜しみなく配り、芸人にまで報いることが、叙任の宴の定型であった。叙任は新騎士の largesse(気前よさ) を公に示す機会でもあった。
一方、アンジュー家の息子たちの叙任を伝える Howden は記述が簡潔で、こうした宴や贈与の列挙を欠く。若ヘンリーの叙任は戴冠と一体の大宮廷ではあったが、史料が書き留めるのはその政治的・教会法的な含意(カンタベリー教会の権利侵害)であって、宴の華やぎではない。同じ叙任でも、何を記録に残すかは年代記によって異なる。
まとめ
| 被叙任者 | 年 | 叙任した者・場所 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 若ヘンリー王 | 1170(戴冠と同日) | 父ヘンリー2世 | Gervase, Historical Works, p.205(cf. Histoire de Guillaume le Maréchal, t.1, p.91-92 は1173年・マーシャル説) |
| リチャード | 1173 | フランス王ルイ7世 | Howden, Chronica, t.2, p.169 / Walter of Coventry, Memoriale, t.1, p.283 |
| ジェフリー | 1178 | 父ヘンリー2世、ウッドストック | Howden, Gesta Regis Henrici Secundi, t.1, p.283 |
| ジョン | 1185 | 父ヘンリー2世、ウィンザー | Howden, Chronica, t.2, p.417 |
| フィリップ2世 | 記録なし | (叙任記録なし。正統性は塗油による) | cf. Rigord, Gesta Philippi Augusti, t.1, p.193 |
| アルテュール(アーサー) | 1202 | フランス王フィリップ2世、ゴルネー | Rigord, Gesta Philippi Augusti, t.1, p.165 |
ヘンリー2世は四人の息子のうち、若ヘンリー・ジェフリー・ジョンの三人を自らの手で騎士に叙した。例外はリチャードで、彼だけが父ではなくフランス王ルイ7世から剣を受けている。1173年という反乱の年に、父の敵である宗主の手で騎士となった事実は、リチャードの立ち位置を象徴する。
ただし、この叙任はリチャードを守ったわけではない。反乱の中で、リチャードはアキテーヌを拠点に実戦を経験し、兄弟の中でも早くから軍事的な自立を示していた。ヘンリー2世にとってリチャードは、単に従順でない息子ではなく、実際に兵を集め、土地を押さえ、抵抗しうる危険な息子だった。
1174年、ヘンリー2世とルイ7世の停戦が結ばれると、リチャードはその利益から外される。フランス王の手で騎士となった少年は、和平の場では容易に切り離され、最後には父の前で赦しを請う側に置かれた。リチャードは兄弟の中でも早くから実戦で力を示したが、ヘンリー2世はその有能さに報いるより、むしろ危険視して抑え込もうとしたように見える。
リチャードの騎士叙任の時期、フィリップ2世は7〜8歳である。少年フィリップがこの騎士叙任の儀を見ていたかどうかは分からない。だが、父ルイ7世の手でアンジュー家の兄弟の一人が騎士となったことは、のちのリチャードとフィリップの関係を考えるうえで、奇妙なほど早い接点だった。
主な出典
- Ralph de Diceto, Ymagines Historiarum — ヘンリー2世自身の叙任(1149年、スコットランド王デイヴィッド)
- Gervase of Canterbury, Historical Works — 若ヘンリー王の叙任(1170年、戴冠と同日)
- Histoire de Guillaume le Maréchal, t.1(P. Meyer 校訂、古フランス語韻文) — 若王の叙任の異伝と「フランス王を望んだ」証言
- Roger of Howden, Chronica, t.2 — リチャードの叙任(1173年、ルイ7世)、ジョンの叙任(1185年)
- Roger of Howden, Chronica, t.4 — 伯位の授与にも用いられる帯剣(accinxit gladio comitatus、1199年)
- Roger of Howden, Gesta Regis Henrici Secundi, t.1 — ジェフリーの叙任(1178年)
- Walter of Coventry, Memoriale — リチャード叙任の並行記事
- Rigord, Gesta Philippi Augusti — フィリップ2世の「初陣」とアルテュールの叙任(1202年)
- Gislebert of Mons, Chronicon Hanoniense — 家門の不和を越えて叙任者を選んだ例(アルベールのエノー伯叙任)