アンジュー家のクリスマス


アンジュー家のクリスマス 王はどこで降誕祭を過ごしたか

中世の王権にとって、クリスマス宮廷(curia in Nativitate Domini)は単なる祝祭ではない。復活祭と並ぶ年2度の「冠戴の祭典」を兼ねた、最大規模の政治集会だった。王がどこに居て、誰を呼んだか――それは統治の優先順位と、家族・諸侯間の力関係を端的に映す。

ロジャー・オブ・ハウデンは、ほぼ毎年「王はクリスマスの日に某所で宮廷を開いた(rex tenuit curiam suam … apud X)」という定型句を残した。おかげでヘンリー2世とその息子たちが降誕祭をどこで過ごしたかは、年単位で追える。本稿はその所在を、いくつかの局面に分けて読む。

なお日付はすべてクリスマス当日のカレンダー年で表記する(ハウデンは受胎告知年法を用いるため、史料上はしばしば翌年表記になる)。


場所が語る、統治の重心

ヘンリー2世のクリスマス宮廷の場所は、その年の統治の重心を示す。資料に残る範囲では、開催地は圧倒的に大陸領――ル・マン、シノン、アンジェ、カーン、アルジャンタンに偏る。アンジュー伯家の祖地とノルマンディー公領が、彼の本拠だった。

イングランドでの開催は、特定の政治目的を伴うことが多い。たとえばスコットランド王の臣従を確認する場として。

Henricus rex Angliae … tenuit curiam suam die Natalis Domini, quae feria tertia evenit, apud Notigham; cui festo interfuit Willelmus rex Scotiae, et comites et barones regni.

ヘンリー王は……ノッティンガムでクリスマスの日――火曜日であった――宮廷を開いた。その祝祭にはスコットランド王ウィリアム〔獅子王〕および王国の諸伯諸侯が参加した。(1179年)

獅子王ウィリアムは1174年のファレーズ条約以降、イングランド王の家臣として宮廷に出席している。ノッティンガムというイングランド中部の選択は、その服属関係を可視化する場だった。

例外的な場所もある。1171年、ベケット暗殺の翌年、ヘンリー2世はアイルランド遠征中のダブリンで降誕祭を迎えた。宮殿は現地の様式で建てられた仮設のものである。

… construxerunt ad opus ejus per praeceptum ipsius de virgis, ad morem patriae illius; in quo ipse regale festum in Natale Domini tenuit cum regibus et ditioribus Hyberniae.

彼の命令により〔住民たちは〕木の枝でその地の風習に従って〔宮殿を〕彼のために建てた。その中で彼はクリスマスの王の祝祭を、アイルランドの諸王と有力者たちと共に開いた。(1171年)

「その地の風習に従って木の枝で(de virgis, ad morem patriae illius)」という一句は、土着の建築への民族誌的な観察である。ベケット殺害の余波のなか、教皇の赦免を得るための贖罪遠征という文脈が、この異例の開催地の背景にある。


家族は集まり、そして散る

クリスマス宮廷の参加者は、アンジュー家の結束と分裂をそのまま記録する。

結束の側。1184年のウィンザー宮廷は、参加者が最も詳細に列挙された記録である。王妃アリエノール、息子リチャードとジョン、亡命中のザクセン公ヘンリー獅子公とその一家、ダラム司教・リンカン司教、スコットランド王の弟デイヴィッド、そして多くの伯諸侯。注目すべきは王妃の出席である。

Cui festo per mandatum ipsius interfuerunt Alienor regina Angliae, uxor ipsius …

その祝祭には彼の命令により以下の者が参加した。イングランド王妃アリエノール、彼の妻……(1184年)

アリエノールは1173年の大反乱以降ソールズベリーに幽閉されており、宮廷出席は稀だった。若ヘンリーの死(1183年)を経て、王はこの年、一族を一堂に集めている。

なお、この年を舞台として舞台/映画「冬のライオン(Wikipedia)」が製作されている。ヘンリー2世とアリエノール王妃の策謀と舌戦の素晴らしい作品だが、舞台はシノンへと変更されている。この作品はリチャードとフィリップの同性愛をも描いており、フランス王であるフィリップをクリスマス宮廷へ呼ぶためには、イングランドのウィンザーでは難しかったからであろう。なお、映画では1183年と描かれているが、この年はル・マンでありアリエノール王妃や息子たちが参加した記録はない。

分裂の側。その8年前、1176年のクリスマスは、アンジュー帝国の全土に宮廷が分散した。

Henricus rex Angliae … tenuit curiam suam die Natalis Domini in Anglia apud Notingham. Et Henricus rex Angliae filius suus tenuit curiam suam in Normannia apud Argentomium … Et Ricardus comes Pictaviae, filius ejus, tenuit curiam suam in Aquitania apud Burdegalensem civitatem; et reliqui duo filii sui, Gaufridus scilicet comes Britanniae, et Johannes, erant in Anglia cum eo.

ヘンリー2世はイングランドのノッティンガムでクリスマスの日に宮廷を開いた。息子なるヘンリー王〔若ヘンリー〕はノルマンディーのアルジャンタンで宮廷を開き、妻なるフランス王女〔マルガリット〕も彼と共にあった。息子ポワティエ伯リチャードはアキテーヌのボルドー市で宮廷を開いた。そして残る2人の息子――ブルターニュ伯ジェフリーとジョン――はイングランドに父と共にあった。(1176年)

父はノッティンガム、若ヘンリーはアルジャンタン、リチャードはボルドー。三つの宮廷が同時に開かれた。これは内紛の兆しというより、帝国各地に息子を配置した統治体制の表れでもある。リチャードはこのクリスマスの直後、ダクスを10日で攻略している――伯として与えられたアキテーヌをすでに自力で治めていた。

なお若ヘンリーが「rex(王)」として独自の宮廷を開けたのは、父の存命中に戴冠した共治王だったからである。1182年のカーン宮廷では、彼は明示的に「rex」の地位で父や弟たちと同席した。それが一族のそろう最後のクリスマスになる。翌1183年6月、若ヘンリーは反乱の最中に病死した。


暗いクリスマス

定型句の合間に、ハウデンが宮廷の空気まで書き留めた年がいくつかある。

最もよく知られるのは1170年、ベケット暗殺の4日前のビュール・ル・ロワである。

Rex Angliae … tenuit curiam suam in Normannia apud Burum, die Nativitatis Dominicae … multum contristatus et confusus pro eo quod Cantuariensis archiepiscopus absolvere noluit episcopos Angliae quos innodaverat vinculo excommunicationis.

イングランド王は……ノルマンディーのビュールにて、クリスマスの日に宮廷を開いた……深く悲嘆し動揺していた。なぜならカンタベリー大司教〔ベケット〕が、彼が破門縄で縛りつけたイングランドの司教たちの赦免を拒んでいたからである。(1170年)

この宮廷の席で発せられた言葉が、4日後の暗殺へとつながったとされる。なおこの年は、アリエノールと息子リチャード・ジェフリー・ジョンが同席した、家族のそろう最後期の記録でもある(並行する『Chronica』が補う)。

ヘンリー2世の最後のクリスマスにも、ハウデンは注釈をつけた。1188年、アンジューのソミュール。

… idem Henricus fuit die Natalis Domini, quae die Dominica evenit, in Andegavia apud Saumur, et solemne festum ibi tenuit: licet quamplures de comitibus et baronibus suis, eo relicto, adhaesissent regi Franciae et comiti Ricardo contra eum.

同ヘンリーはアンジューのソミュールでクリスマスの日――日曜日であった――荘厳な祝祭を開いた。ただし、彼の伯諸侯の多くが、彼を見捨ててフランス王および伯リチャードに、彼に反対して加担していたにもかかわらず。(1188年)

編年者はこの年を治世「第35年にして最後の年(annus tricesimus quintus et ultimus)」と記す。息子リチャードがフィリップ2世の側に回り、家臣の多くが離れていくなかで開かれた「荘厳な祝祭」だった。半年後の1189年7月、ヘンリー2世は死去する。

リチャード1世の治世にも、暗い降誕祭が記録される。1196年のビュールでは、シャトー・ガイヤール建設の用地接収をめぐる大司教との対立から、ノルマンディー全土に聖務停止が下されていた。

… idem Ricardus fuit in Normannia apud Burum die Natalis Domini … plurimum confusus, eo quod Walterus Rothomagensis archiepiscopus noluit relaxare interdicti sententiam quam in Normanniam tulerat. Corpora enim defunctorum insepulta jacebant per vicos et plateas civitatum Normanniae.

同リチャードはノルマンディーのビュールでクリスマスの日を過ごし、大いに動揺していた――ルーアン大司教ウォルターがノルマンディーに発した聖務停止の判決を解除しなかったからである。実に死者の遺体が埋葬されぬまま、ノルマンディー諸市の通りや広場に転がっていた。(1196年)


聖地のクリスマス、捕囚のクリスマス

リチャード1世の降誕祭は、父とは異なる地理を描く。第3回十字軍とその後の捕囚により、彼は数年にわたってアンジュー帝国の外でクリスマスを迎えた。

1190年はシチリアのメッシーナで、フィリップ2世と共に越冬した。両王の到着は対照的だった。フィリップは9月16日に船一隻で静かに先着し、タンクレーディ王の宮殿に迎え入れられた(Howden Chronica v3 p.206)。リチャードは9月23日、多数のガレー船とラッパや角笛を鳴らして到着し、街の人々が震え上がるほどの威光を放ったとハウデンは記す。

Messanam in Sicilia, cum buciis multis, et aliis magnis navibus, et galeis, in tanta gloria, et sonitu tubarum et buccinum, quod tremor apprehendit eos qui in civitate erant.

〔リチャードは〕多くの小舟、大型船、ガレー船を率い、ラッパと角笛を響かせ、街にいた者たちが震え上がるほどの威光をもってシチリアのメッシーナに到着した。(Howden Chronica v1 p.212)

リチャード自身は市の郊外、ブドウ畑のなかの館に入った。到着の翌日からは相互訪問が始まる。「9月24日と25日、イングランド王はフランス王の宿所を訪れて会談し、その逆もあった(venit rex Anglie ad hospitium regis Francie loqui cum eo, et e converso)」(Howden Chronica v1 p.212)。

クリスマス当日、リチャードは自らの城マテグリフォンで会食を開いた。ハウデンはその席に集った顔ぶれを書き留めている。

et epulabatur cum eo, die illa, Reinaldus Carnotensis episcopus, et Hugo dux Burgundie, et Willelmus comes de Nevers, et Willelmus comes de Juvenni, et Gaufridus comes de Pertico, et tota fere familia regis Francie.

その日、彼〔リチャード〕と宴席を共にしたのは、シャルトル司教レジナルド、ブルゴーニュ公ユーグ、ヌヴェール伯ウィリアム、ジュヴィニー伯ウィリアム、ペルシュ伯ジョフロワ、そしてフランス王の家臣団のほぼ全員であった。(Howden Gesta v2 p.325)

ハウデンは家臣団の顔ぶれを挙げるにとどまる。第3回十字軍に従軍したアンブロワーズの『聖戦史』は、さらに踏み込んで、リチャードがフィリップ本人を自らの宴に招き入れたと記す。

On tint grande fête le jour de la Nativité; le roi Richard fit crier que tous pouvaient venir et faire la fête avec eux, et réussit à emmener le roi de France manger chez lui.

降誕祭の日に盛大な祝宴が催された。リチャード王は、皆が来て共に祝ってよいと触れさせ、フランス王を自らの宴に招き入れることに成功した。(Ambroise『聖戦史』p.291)

宴の場は、リチャードがメッシーナ住民の反対を押し切って築いた城マテグリフォンの広間だった。両王がこの降誕祭を「共に(simul)」過ごしたことは、ハウデンも記している(Gesta v2 p.325、Chronica v3 p.244)。会食は降誕祭当日の昼食後、ピサ人とジェノヴァ人の市内衝突によって中断される。報せを受けた一同は武装して鎮圧に向かったが、夜になって翌朝まで分かれた。

メッシーナ越冬は、リチャードとフィリップの関係の二面性をそのまま示す。一方の城に他方の家臣団が集う歓待がある一方で、入城の拒否や、のちのアリス婚約解消(別稿で扱う)に至る緊張も同居していた。

翌1191年は聖地にあった。

Eodem die Natalis Domini, Ricardus rex Angliae fuit in terra Suliae apud le Turun as chevalers … Cum eo erat Berengaria regina Anglie, filia regis Navarre, et Iohanna regina Sicilie, soror eius.

同じクリスマスの日、イングランド王リチャードはシリアの地、ル・トロン=デ=シュヴァリエ〔ラトルン〕にあった……ナバラ王の娘でイングランド王妃ベレンガリア、および同王の妹でシチリア王妃ジョアンナも同地にいた。(1191年)

この1191年のクリスマスは、一族の地理的分散の極点でもある。リチャードは聖地、母アリエノールはノルマンディー、弟ジョンはイングランド、そしてフィリップ2世は十字軍から帰国してフランスにあり、「近々イングランド王の領地を蹂躙すると傲慢に豪語していた(impudenter jactans se in proximo vastaturum terras regis Angliae)」。王が東方で戦う間に、その領地が西方で脅かされていた。

翌1192年12月、帰路で捕縛されたリチャードは、以降のクリスマスを獄中で過ごす。1193年はライン中流の帝国都市シュパイアーで、皇帝ハインリヒ6世の捕囚下にあった。

… idem Ricardus fuit adhuc in captione Henrici Romanorum imperatoris, in Alemannia apud Spiram, die Natalis Domini, quae Sabbato evenit …

彼は依然としてローマ人皇帝ハインリヒ〔6世〕の捕囚下にあり、ドイツのシュパイアーにて、クリスマスの日――土曜日――を過ごした。(1193年)

身代金を経て1194年に解放されると、彼のクリスマスはノルマンディー(ルーアン、ビュール)とアキテーヌ(ポワティエ)に戻る。だがそれは、フィリップ2世との終わりのない戦争のための、戦時の降誕祭だった。1194年のルーアンでは、王は「フランス王フィリップに対抗するための金銭と兵員の準備に専心していた(sollicitus providere sibi necessaria in pecunia, et hominibus adquirendis contra Philippum regem Franciae)」。

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全クリスマス宮廷一覧(1160〜1198)

降誕祭の所在を一覧にする。日付はクリスマス当日のカレンダー年。

ヘンリー2世期(1154年即位 〜 1189年死去)

場所同席・特記
1160ル・マン治世7年
1163シノン(アンジュー)アリエノール同伴。若ヘンリーと妻はノルマンディーに別在
1170ビュール・ル・ロワ(ノルマンディー)アリエノール+リチャード・ジェフリー・ジョン同席。ベケット暗殺4日前、「悲嘆と動揺のうちに」
1171ダブリン(アイルランド)木造の仮設宮殿。アイルランド諸王と。贖罪遠征中
1172シノンアリエノール同伴
1173カーン(ノルマンディー)第1次大反乱中。仏王と休戦交渉
1174アルジャンタン(ノルマンディー)大反乱終結後
1175ウィンザー若ヘンリー同席(父子和解)。教皇特使はヨークで別宮廷
1176ノッティンガム+ジェフリー・ジョン。若ヘンリーはアルジャンタン、リチャードはボルドーで同時開催
1177アンジェ地方の諸侯・有力者を召集した荘厳な祝祭
1179ノッティンガムスコットランド王ウィリアム獅子王と諸伯
1180ル・マン荘厳な宮廷
1181カーン(年は1182とする説もあり)
1182カーンリチャード・ジェフリー、ザクセン公獅子公一家、両大司教ら大集合。若ヘンリーも「rex」として同席。家族の揃った最後のクリスマス宮廷
1183ル・マン若ヘンリー死去(同年6月)の半年後
1184ウィンザーアリエノール・リチャード・ジョン・獅子公一家・スコットランド王弟デイヴィッド・諸司教。最も詳細な参加者記録
1185ドンフロン(ノルマンディー南部)ジゾール盟約の前年
1186ギルフォードジョン・ダブリン大司教・ハンティンドン伯・3伯。3伯が戴冠儀礼的な食卓役務を遂行。教皇特使来訪(ジョンのアイルランド戴冠計画)
1187カーンエルサレム陥落の年。十字軍誓約集会の直前
1188ソミュール(アンジュー)治世「最後の年」。家臣の多くがフィリップ2世・リチャード側へ離反

リチャード1世期(1189年即位 〜 1199年死去)

場所同席・特記
1189ビュール・ル・ロワ(ノルマンディー)即位後最初。直後にフィリップ2世とサン・レミの渡しで会談
1190メッシーナ(シチリア)フィリップ2世と共同越冬。到着後に相互訪問。降誕祭はリチャードがマテグリフォン城の宴にフィリップ本人と家臣団を招く(Ambroise/Howden)。当日にピサ・ジェノヴァ衝突。アッコン包囲軍では飢饉継続
1191ラトルン(シリア)王妃ベレンガリア・王妹ジョアンナ・キプロス皇女同伴。母アリエノールはノルマンディー、弟ジョンはイングランド、フィリップ2世はフォンテーヌブローに分散
1192(捕囚下、所在は未収。レオポルト5世の手中)同日フィリップ2世はマントでジョンへの離反工作
1193シュパイアー(ドイツ)皇帝ハインリヒ6世の捕囚下
1194ルーアン(ノルマンディー)解放後最初。対フィリップ戦の準備に専心
1195ポワティエ(アキテーヌ)アキテーヌ中枢へ南下
1196ビュール・ル・ロワノルマンディー聖務停止下(遺体が埋葬されず街路に放置)
1197ルーアン大司教兼宰相ヒューバート・ウォルターはウェールズのヘレフォードで城塞接収
1198-フィリップ2世はヴェルノン、甥オットー4世はヴェストファーレン

補遺:フィリップ2世のクリスマス(参考)

場所出典・特記
1181頃ランエノー伯が騎士団を伴い謁見(Gislebert of Mons)
1191フォンテーヌブロー十字軍帰国直後。数日後サン・ドニ巡礼(Rigord)
1192–93冬(ジゾール城を獲得)リチャード捕囚中の英王領侵攻(Gislebert of Mons)

まとめ

クリスマス当日に王がどこに居たか。この一点だけでも、アンジュー家の40年が見通せる。

ヘンリー2世の降誕祭は大陸領を巡り、ときにスコットランド王の服属(ノッティンガム1179)やアイルランド遠征(ダブリン1171)を映した。息子たちの宮廷は、帝国各地への配置(1176年の三宮廷)と、和解(ウィンザー1184)と、離反(ソミュール1188)を順に記録する。リチャード1世の降誕祭は、聖地(ラトルン1191)から捕囚(シュパイアー1193)を経て、戦時のノルマンディーへと移る。

ハウデンの「rex fuit apud X die Natalis Domini」は、無味乾燥な定型句に見える。だが毎年機械的に記録されたからこそ、王の居場所の変遷が一本の線として残った。祝祭の場所そのものが、統治の記録になっている。


主要典拠(trans-corpus 収録)

  • Roger of Howden, Gesta Regis Henrici Secundi I・II(1170 ビュール、1171 ダブリン、1176 三宮廷、1184 ウィンザー、1188 ソミュール ほか)
  • Roger of Howden, Chronica II–IV(1170 家族同席の補完、1190 メッシーナ、1191 ラトルン、1193 シュパイアー、1194 ルーアン、1196 ビュール ほか)

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