欠地王ジョン~誕生から戴冠前夜~
アンジュー帝国の末子ジョンは、ヘンリー2世とアリエノール・ダキテーヌの間に生まれた四男である。上に若ヘンリー王(1155年生)、リチャード(1157年生)、ジェフリー(1158年生)の三人の兄がおり、ジョンが成人する頃には王国も公領もすでに兄たちの間で分配済みであった。のちに「欠地王」(Sine Terra)と呼ばれる渾名は、この末子の位置そのものを要約している。
この記事ではジョンの誕生(1166年ないし1167年)からリチャード1世の死(1199年4月6日)までを同時代史料に依拠しつつ追う。焦点は、ジョン自身の全事績ではなく、三人の兄若ヘンリー王、リチャード、ジェフリーがそれぞれジョンをどのように認識していたかにある。
リチャード戴冠までについては、所持している一次史料内のジョンの記録をなるべく全て掬い上げたつもりだ。リチャード戴冠以降は政治系書類が膨大となるため、今回はジョンの記録を網羅するのではなく、リチャードの信頼・警戒・後継構想に関わる出来事だけを取り上げる。
誕生と「欠地王」
ジョンの誕生を記録する同時代史料は乏しい。モン=サン=ミシェル修道院長ロベール・ド・トリニの年代記は、ジョンの誕生を一行で記す。
Natus est Johannes filius regis Anglorum.
(イングランド王の息子ジョンが誕生した。)
――ロベール・ド・トリニ, Chronicle, p.311
この記録が1166年と1167年のいずれに属するかは確定しがたい。編者は「ジョンの誕生を丸1年早く見積もっている可能性がある」(think it is questionable whether he has not antedated the birth of John by a whole year)と注記している(ディセト, Ymagines Historiarum, p.52, 編者注)。生年の不確実性は、末子の誕生がいかに同時代人の関心を引かなかったかを逆説的に示している。
ジョンにまつわる最も有名な渾名「欠地王」(Sine Terra)は、ウィリアム・オブ・ニューバラが簡潔に伝えている。
…quartum natu minimum Johannem sine terra agnominans.
(末っ子のジョンには「欠地王」という名を与えた。)
――ウィリアム・オブ・ニューバラ, Historia Rerum Anglicarum, vol.1, p.153
この渾名は、ジョンが兄たちと異なり、誕生時に定められた領地を持たなかったことに由来する。しかし、ロベール・ド・トリニの後年の記述は興味深い。
Johannes minor filius regis Anglorum, quem vocant Sine Terra, quamvis multas et latas habeat possessiones.
(イングランド王の末子ヨハネス(「欠地王」と呼ばれる)は、広大な領地を有していた。)
――ロベール・ド・トリニ, Chronicle, p.389
渾名が定着したあとでさえ、ジョンが実際には広大な領地を有していたことをトリニは「にもかかわらず」(quamvis)と逆接で結んでいる。「欠地王」とは、領地の有無というよりも、末子の構造的な位置――兄たちの領地をすべて取り除いたあとに何も残らないことを示す符号だったのである。
1173年の大反乱 父のそばに残された幼子
反乱の背景を理解するには、1169年頃にさかのぼる必要がある。ヘンリー2世は領土の分割を構想し、長男の若ヘンリーにイングランド王国・ノルマンディー公国・アンジュー伯領・メーヌ伯領を割り当てた。ハウデンのGestaはこの分割の末尾に注目すべき一文を置いている。
…tradidit ei Johannem fratrem suum minimum ad promovendum et manutenendum.
(末弟のジョンを彼〔若ヘンリー〕に託して、その支援と養育を命じた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.83
ジョンは若ヘンリーの「保護下」(ad promovendum et manutenendum)に置かれたのである。まだ2、3歳にすぎない末弟の将来を、18歳の長兄に委ねるという取り決めであった。これは単なる養育の委託にとどまらず、若ヘンリーがイングランド王位を継いだ際にジョンの領地や地位を保障する政治的な責任を意味した。
しかしこの取り決めは、若ヘンリーにとって構造的な矛盾を内包していた。自分の領地からジョンに分け与えよということは、すなわち自分の取り分を末弟のために削れということに他ならない。この矛盾が、わずか数年後に爆発することになる。
1173年、若ヘンリー王がフランス王ルイ7世と結んで父に反旗を翻した。ジャーヴェイス・オブ・カンタベリーは、反乱の発端を次のように伝える。
Accessit et aliud scandali sequentis incentivum; voluit enim rex pater tria dare castella Johanni filio suo juniori. Hiis de causis irritatus junior rex a patre clanculo recessit […] Fratres etiam ipsius, Ricardus scilicet et Gaufridus, patre penitus ignorante fugerunt.
(さらに不和を招く別の要因として、父王が末息子のジョンに3つの城を与えようとしたことがあった。これらの理由から憤慨した若ヘンリー王は父のもとを密かに去り、リチャードとジョフロワも父に知られることなく逃亡した。)
――ジャーヴェイス・オブ・カンタベリー, Historical Works, p.206
ここで注目すべきは、ジャーヴェイスがジョンへの城の付与を反乱の「もうひとつの火種」(aliud scandali sequentis incentivum)と明確に位置づけていることである。若ヘンリー王は、父から戴冠を受けながらも実質的な権力を持たない「名前だけの王」であった。その若ヘンリー王の目には、まだ幼い末弟への城の付与は、自分の取り分がさらに削られることを意味した。特にハウデンのGestaは、同時期のジョンとモーリエンヌ伯の娘との婚約交渉において、この緊張を具体的に伝えている。
Rex Anglorum Henricus Johanni filio suo, cognomento Sine-terra, vix septenni filiam Huberti comitis de Moriaua primogenitam…
(イングランド王ヘンリーは、欠地王と呼ばれる息子ジョンのために、わずか7歳にも満たない彼にモーリエンヌ伯ユベールの長女を娶らせた。)
――マシュー・パリス, Chronica Majora, vol.2, p.350
Humbertus, comes Moriennae, misit abbatem Sancti Michaelis de Clusa ad Henricum regem Anglorum, pro componendo matrimonio inter Johannem filium regis et filiam suam, offerens ei totam terram suam.
(モーリエンヌ伯ウンベルトは、王の息子ジョンと自身の娘との婚姻を取り決めるため、サン=ミシェル=デ=クリューズ修道院長をイングランド王ヘンリーのもとへ派遣し、自領のすべてを差し出すと申し出た。)
――ロベール・ド・トリニ, Chronicle, p.328
Comes vero Maurianse scire voluit apud Limoges quid et quantum praedictus Johannes filius regis […] haberet de terra patris sui.
(モーリエンヌ伯は、ジョンが父王の領地から何を得られるのかを知りたがった。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.117
モーリエンヌ伯の娘との婚約交渉の席で、ジョンに何が与えられるかが問われたとき、若ヘンリー王はあらゆる譲渡を拒否した。末弟への領地付与は、長兄の権利の侵害とみなされたのである。
若ヘンリーの反乱には母アリエノールも深く関与していた。
Praedicta quidem regina eo tempore habuit in custodia sua Ricardum ducem Aquitaniae et Gaufridum comitem Britanniae filios suos, et misit eos in Franciam ad juvenem regem fratrem illorum, ut cum eo essent contra regem patrem ipsorum.
(当時、王妃は息子であるアキテーヌ公リチャードとブルターニュ伯ジョフロワを保護下に置いていたが、彼らをフランスへ送り、兄である若ヘンリー王のもとで父王に敵対させた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.118
こうして若ヘンリー王、リチャード、ジェフリーの三兄弟は結束して父に対峙した。残されたのは幼いジョンだけであった。ジャーヴェイスの一文はこの場面の核心を衝く。
Johannes puerulus cum patre remansit invitus.
(幼いジョンは父のもとに、不本意ながら残された。)
――ジャーヴェイス・オブ・カンタベリー, Historical Works, p.206
「不本意ながら」(invitus)という語は、のちの年代記作者の解釈が入っている可能性がある。しかし、当時のジョンはおそらく6歳か7歳にすぎず、選択の余地がなかったことは事実である。兄たちが一致して父に反旗を翻した1173年、ジョンは兄弟の政治的連帯の外に置かれていた。反乱の原因のひとつとされながら、その反乱自体には参加できない――ジョンの幼少期を象徴する構図がここに現れている。
なお、この反乱に際して、若ヘンリー王、リチャード、ジェフリーの三兄弟はフランス王ルイ7世のもと、パリの宮廷へ集まった。この宮廷には、当時7〜8歳であった王太子フィリップ、のちのフィリップ2世もいたはずである。リチャードがルイ7世から騎士叙任を受けたのも、この時期のことであった。(記事「誰が誰を騎士にしたか」参照)
ジョンが父のそばに残されていたその時、兄たちはフランス王宮で父への反乱を組織し、幼いフィリップはその空気の中にいた。のちにフィリップは、戴冠後、ヘンリー2世に対抗するため若ヘンリー王、ジェフリー、リチャードと順に結び、最後にはジョン自身とも長い因縁を持つことになる。1173年のパリ宮廷は、ジョンだけが外に置かれた兄弟の連帯の場であると同時に、フィリップとアンジュー家の兄弟たちとの早すぎる接点でもあった。
グロスター伯領と領地問題
父ヘンリー2世は、末子ジョンの立場を安定させるためにさまざまな手段を講じた。その最も重要な一手が、1176年のグロスター伯家の女子相続人との婚約である。
Et si idem comes Gloucestriae filium legitime susceptum de uxore sua habuerit, filius ille et praedictus Johannes filius regis dimidiabunt inter se comitatum Gloucestriae.
(もしグロスター伯に妻との間に嫡子が生まれた場合、その息子と王の息子ジョンがグロスター伯領を折半する。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.201
マシュー・パリスはこの婚約の結果をさらに端的に記す。
Johannes filius regis fit haeres Gloverniae.
(王の息子ジョンがグロスターの相続人となった。)
――マシュー・パリス, Chronica Majora, vol.2, p.362
グロスター伯領は、イングランド西部の最有力な伯領のひとつである。ジョンの婚約は、彼がイングランド国内に確固たる基盤を得ることを意味した。しかし見方を変えれば、これはヘンリー2世が大陸の領土、アキテーヌ、ノルマンディー、アンジューなどからはジョンに与えるものがないことを暗に認めたことでもあった。大陸の領地はすでに三人の兄たちの間で分配済みだったのである。
クリスマス宮廷と会談 史料に現れるジョンの影
ジョンの幼少年期は、一次史料において固有の事績をほとんど持たない。しかし、毎年のクリスマス宮廷の参列者リストには繰り返しその名が現れ、アンジュー帝国の「末子」がどの兄と、どこにいたかを追跡する手がかりとなる。(記事「アンジュー家のクリスマス」参照)
ジョンの名が現れる早い例のひとつは、1170年のクリスマスである。
...idem rex Angliae fuit in Normannia apud Burum die Nativitatis Domini; qui sexta feria evenit, et Alienor regina, et Ricardus, et Gaufridus et Johannes filii ejus cum eo.
(イングランド王はノルマンディーのビュールで降誕祭を迎えた。金曜日であり、王妃アリエノール、息子のリチャード、ジェフリー、ジョンが同席した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.2, p.128
このクリスマスは、トマス・ベケット暗殺の直前にあたる。若ヘンリー王はすでに同年6月に戴冠しており、父王とは別の政治的位置に置かれていた。一方で、リチャード、ジェフリー、ジョンの三兄弟は、母アリエノールとともにノルマンディーの父王の宮廷にいた。ジョンはまだ3、4歳であり、兄たちの政治的争いに加わる年齢ではなかった。
翌1171年のクリスマス、ヘンリー2世はアイルランド遠征中で、ダブリンで降誕祭を迎えている。つまり、1170年のビュール宮廷は、1173年の大反乱以前に、アリエノールと三人の年少の息子たちが父王のもとに同席していたことを示す、重要な記録である。なおリチャードはその後、1172年にリモージュでアキテーヌ公として就任することになる(Geoffrey de Vigeois, Chronique, p.138)。
1173年の大反乱後、アリエノールは幽閉され、家族の在り方は一変した。1176年のクリスマスは、反乱後の兄弟の配置を示す記録である。
…Henricus, et Gaufridus comes Britanniae, et Johannes, filii ejus fuerunt simul in Anglia apud Northamtun in festo Natalis Domini.
(若ヘンリー王、ブルターニュ伯ジェフリー、ジョンがノーサンプトンのクリスマスに同席した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.2, p.231
リチャードの名がない。彼はアキテーヌで独自の宮廷を開いていた。翌1177年のクリスマスでは分裂がさらに鮮明になる。
Et Ricardus comes Pictavise, filius ejus, tenuit curiam suam in Aquitania apud Burdegalensem civitatem; et reliqui duo filii sui, Gaufridus scilicet comes Britanniae, et Johannes, erant in Anglia cum eo.
(ポワトゥー伯リチャードはアキテーヌのボルドーで宮廷を開いた。残る二人の息子、ブルターニュ伯ジェフリーとジョンは、イングランドで父と共にいた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.207
若ヘンリー王はノルマンディーのアルジャンタンで王妃と宮廷を開き、リチャードはボルドーに、父ヘンリー2世はノッティンガムにジェフリーとジョンを伴っていた。アンジュー帝国が四つの宮廷に分散していた実態が、この一節に凝縮されている。ジョンはつねに父のそばにおり、兄若ヘンリーやリチャードとは別行動であった。
若ヘンリー王の死後(1183年)、ジョンの動きはより具体的になる。1183年のクリスマスにはル・マンでイングランドから渡ってきたジョンが父と合流した。
…habens secum Johannem filium suum, qui de Anglia venerat.
(王はイングランドから来た息子のジョンを同伴していた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.386
ジョンがイングランドから大陸へ渡って父と合流している点は重要である。10代後半のジョンが、父の政治的計画に組み込まれつつあったことを示唆する。この直後に、ヘンリー2世がリチャードにアキテーヌをジョンに譲るよう命じた事件が起きることになる。
さらに1186年のクリスマス(ギルフォード)では、ジョンの将来をめぐる外交的動きが加速していた。
Cui interfuit Johannes filius ejus, et Johannes Cumyn archiepiscopus Divelinensis […] Ibi autem in crastino Nativitatis Domini pervenit ad aures regis quod duo legati, missi a latere Urbani summi pontificis, applicuerunt in Angliam apud Doveram […] quibus dominus papa commisisset legationem in Hiberniam, ad coronandum Johannem filium suum in regem Hiberniae.
(この祝宴にはジョンとダブリン大司教ジョン・カミンらが列席した。降誕祭の翌日、教皇ウルバヌスから派遣された二人の使節がドーバーに到着したとの報が王に届いた。教皇から、アイルランドで王の息子ジョンを王として戴冠させるための使節を託されていた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.2, p.178–179
しかしヘンリー2世はこの戴冠を延期した。ハウデンのChronicaによれば、使節をノルマンディーへ連れて行き、フィリップ2世との会談に臨んだ(Chronica, vol.2, p.431)。ジョンのアイルランド王戴冠は、ヘンリー2世の生前には実現しなかった。
これらのクリスマス宮廷記録は、個々には事務的な参列者リストにすぎない。しかし通覧すれば、ひとつのパターンが浮かび上がる。ジョンはつねに父のそばにいた。リチャードとはほぼ常に別の宮廷であった。ジェフリーとは同じ宮廷にいることが多かったが、1186年のジェフリーの死後は父と二人になった。ジョンの少年期の世界は、アキテーヌのリチャードとは断絶し、父ヘンリー2世の宮廷に閉じていたのである。
1183年 若ヘンリー王の反乱と死
1183年、若ヘンリー王は再びリチャードに対して反乱を起こした。今度はアキテーヌの諸侯を巻き込んでの大規模な軍事行動であった。エノー伯宮廷に仕えたジルベール・ド・モンスは、その背景を記す。
…cum nichil de patris vel matris hereditate possideret, et frater suus Richardus totam terram matris, scilicet Pictaviam et Gasconiam, possideret, ipse terram illam reclamans in fratrem insurrexit.
(若ヘンリーは、父や母の遺産を相続していなかったが、兄弟のリチャードが母の領地であるポワトゥとガスコーニュをすべて支配していたため、その領地を求めて兄弟に対して反旗を翻した。)
――ジルベール・ド・モンス, Chronique, p.141
ジルベールはさらに注目すべき一文を添えている。「リチャードは人望が薄かった」(Richardus a paucis amabatur)。ジャーヴェイス・オブ・カンタベリーも同趣旨の記述を残す。
Sublimiores enim Aquitanniae viri comitem Ricardum dominum suum propter indomitam ipsius crudelitatem odio habebant, volebantque ad regem juvenem utpote benignum et placidum transferre dominatum.
(アキテーヌの有力者たちは、リチャード伯の抑えがたい残虐さを憎み、寛大で穏やかな若ヘンリー王の下へ支配を移そうと望んだ。)
――ジャーヴェイス・オブ・カンタベリー, Historical Works, p.208
この時のジョンの位置は注目に値する。1183年にはジョンは16歳前後であり、もはや「幼子」(puerulus)ではなかった。しかし1183年の反乱において、ジョンが若ヘンリー王の側に明確に加担したという記録は見当たらない。末弟は、兄弟間の衝突の当事者ではなく、依然として傍観者であった。若ヘンリー王の関心は、リチャードのアキテーヌを奪うことに集中しており、末弟ジョンに対する態度は史料にほとんど現れない。
若ヘンリー王は同年6月11日にマルテルで病死した。この死がアンジュー帝国の相続問題を一変させた。長男の死により、リチャードがイングランド王位の事実上の後継者となり、空いたアキテーヌ公領の処遇が新たな争点として浮上する。ヘンリー2世にとって、末子ジョンの将来をどう保障するかが一層の急務となった。
アキテーヌ問題(1184-85年)ヘンリー2世の悲願
若ヘンリー王の死後、ヘンリー2世はジョンの処遇をめぐって大胆な構想を練った。リチャードをイングランド王位の後継者とする代わりに、アキテーヌ公領をジョンに譲渡させようとしたのである。ハウデンのGestaは、1184年末の決定的な場面を伝える。
…praecepit ei rex concedere Johanni fratri suo, ducatum Aquitanniae, et recipere inde homagium suum.
(国王は彼〔リチャード〕に対し、弟ジョンにアキテーヌ公領を譲り、その臣従の礼を受けるよう命じた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.384
リチャードは2、3日の猶予を求めて友人に相談したいと答え、そのままポワトゥーに逃亡して拒否の姿勢を示した。父の命令は無視された。ハウデンのChronicaも同じ場面を記録する。
…dominus rex praecepit Ricardo filio et haeredi suo recipere homagium Johannis fratris sui de Pictavia, sed recipere noluit.
(王はリチャードに対し、弟ジョンのポワトゥーに関する臣従の礼を受けるよう命じたが、リチャードは拒否した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.2, p.396
リチャードにとって、アキテーヌは15歳から統治してきた自らの領土であった。反乱諸侯を鎮圧し、城を築き、血を流して守り抜いた公領を、戦場に出たこともない末弟に引き渡す理由はなかった。拒否は当然の帰結であった。
ヘンリー2世は、リチャードの抵抗に対して激しく反応した。
Auditis itaque his responsis, indignatus est dominus rex, et concessit Johanni filio suo exercitum ducere in terram Ricardi fratris sui ad debellandum eum.
(この返答を聞いた国王は憤慨し、息子ジョンに対し、兄リチャードの領地へ軍を率いて侵攻するよう許可を与えた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.387
この命令は、ジョンだけではなく三男ジェフリーの協力を前提としていた。
Interim comes Gaufridus Britanniae, et Johannes frater ejus, filii regis, magnum congregaverunt exercitum, et in manu hostili intraverunt in terram Ricardi comitis fratris eorum, et villas succenderunt, et praedas abduxerunt; similiter faciebat comes Ricardus de terra Gaufridi fratris sui.
(ブルターニュ伯ジョフロワと弟のジョンは軍勢を集め、兄リチャード伯の領地に敵対的に侵入し、村々を焼き払い略奪した。リチャード伯もジョフロワの領地に対して報復した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.395
ここにおいて、ジョンは初めて兄弟間の軍事的対立の当事者となった。もっとも、17歳のジョンが実際にどの程度軍事的指揮を執ったかは不明であり、ジェフリーが実質的な主導者であった可能性が高い。いずれにせよ、この共同行動がジェフリーとジョンの同盟の端緒であったことは間違いない。
最終的にヘンリー2世が介入し、母后アリエノールの面前で和解が成立した。
Deinde dominus rex firmavit pacem et finalem concordiam, scriptis et sacramentis confirmatam, inter Ricardum et Gaufridum et Johannem filios suos, coram Alienor regina matre eorum, et Henrico duce Saxoniae et aliis multis.
(王は、母后アリエノール、ザクセン公ハインリヒら多くの者の面前で、リチャード、ジェフリー、ジョンの間で平和と最終的な和解を、文書と誓約をもって確立した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.2, p.402
「最終的な和解」(finalem concordiam)という表現にもかかわらず、リチャードはアキテーヌをジョンに渡さなかった。ヘンリー2世の構想は頓挫し、ジョンの処遇は未解決のまま残された。
アイルランド、王国の約束
アイルランドへの派遣に先立ち、ヘンリー2世はジョンのアイルランド支配を制度的に整えようとしていた。ハウデンのGestaは、オックスフォード会議での公式な任命を伝える。
…dominus rex Angliae coram episcopis et principibus regni sui, constituit Johannem, filium suum minimum, regem Hiberniae, et postea terras Hiberniae familiaribus suis distribuit.
(イングランド王は司教や諸侯の面前で、末息子のジョンをアイルランド王に任命し、アイルランドの領地を側近たちに分配した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.238
ディセトはこの決定に独自の修辞を添えている。
Johannes de promissione patris et provisione securus diversas Hyberniae portiones, si desuper ei datum fuerit, in monarchiam reducet.
(ジョンは父の約束と配慮を得て、アイルランドの諸地域を単一の君主国に統合することになろう。)
――ラルフ・ド・ディセト, Ymagines Historiarum, p.107
「単一の君主国」(monarchiam)という表現は、ヘンリー2世がジョンに託した野心の大きさを示す。アイルランドは分裂した土着の小王国の寄り合いであり、それを統合してひとつの王国にすることが末子に期待されていた。
アイルランド遠征(1185年)
1185年、ヘンリー2世はジョンを実際にアイルランドへ派遣した。ハウデンのChronicaは騎士叙任と派遣を簡潔に記す。(記事「誰が誰を騎士にしたか 」参照)
…in Dominica qua cantatur Laetare Jerusalem […] fecit Johannem filium suum militem, et statim misit eum in Hyberniam, et inde eum regem constituit.
(「エルサレムを喜べ」と歌われる主日に、王は息子のジョンを騎士に叙し、直ちにアイルランドへ派遣して王に任じた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.2, p.417
ディセトもこの叙任を記録する。
Johannes filius regis, a patre militaribus armis ac[cinctus].
(王の息子ジョンは、父から騎士の武具を授けられた。)
――ラルフ・ド・ディセト, Ymagines Historiarum, p.124
興味深いのは、ジェラルド・オブ・ウェールズが伝える逸話である。ジェラルドは自らアイルランド遠征に同行しており、この遠征の最も重要な証人である。
Ipse vero Joannes, quanquam in Hyberniam, ei a patre datam, jam tunc cum grandi expeditione mittendus foret; patrias ad pedes se provolvens, et ut Ierosolymam potius mitteretur, laudabiliter, ut fertur, efflagitans, non impetravit.
(ジョンは父の足元にひれ伏し、アイルランドではなくエルサレムへ送ってほしいと切望したが、聞き入れられなかった。)
――ジェラルド・オブ・ウェールズ, De Principis Instructione, p.105
18歳の青年が父の足元にひれ伏して聖地への派遣を願ったというこの記述は、「立派なことに」(laudabiliter)と付しつつも「伝えられるところによれば」(ut fertur)と留保を加えている。聖地巡礼への熱望と読むか、アイルランドという辺境への派遣を嫌がったと読むかは、解釈が分かれるところである。
オズニー/ウースター修道院年代記もジョンのアイルランド遠征に触れている。
Johannes, filius regis Henrici ultimo genitus, cognomento sine terra, copiosum exercitum duxit in Hiberniam.
(ヘンリー王の末子ジョン、欠地王の異名を持つ者が、大軍を率いてアイルランドへ向かった。)
――Annales Monastici vol.4 (Osney/Worcester), p.136
遠征の結果は惨憺たるものであった。ハウデンのGestaは失敗の要因を二つ挙げる。
Sed ipse Johannes parum ibi profecit, quia pro defectu indigenarum qui cum eo tenere debebant, et pro eo quod stipendia militibus et solidariis suis dare noluit, fere amisit totum exercitum suum in pluribus conflictibus quos sui fecerunt contra Hibernienses.
(ジョンは現地人の協力が得られず、兵士への給与も払わなかったため、軍のほとんどを失い、成果を上げられなかった。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.415
ジョンは結局イングランドに帰還せざるを得なかった。
Et sic praedictus Johannes, filius regis, ad opus suum omnia retinere cupiens, pro defectu auxilii terram Hiberniae relinquens, in Angliam rediit.
(こうして前述の王子ジョンは、すべてを自分の利益のために保持しようと望んだものの、支援を欠いたためアイルランドの地を離れ、イングランドへ帰還した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.415
「すべてを自分のものにしようとして」(ad opus suum omnia retinere cupiens)というハウデンの描写は辛辣である。ジェラルドの総括はさらに厳しい。
…missio Johannis in Hiberniam ignominiosum ut diximus sortita est effectum.
(ジョンのアイルランド派遣は不名誉な結果に終わった。)
――ジェラルド・オブ・ウェールズ, De Principis Instructione, p.118
ディセトはジョンの帰還日を正確に記録している。
Johannes filius regis Anglorum, vocatus Hyberniae dominus, in Angliam rediit xvi kalendas Januarii.
(イングランド王の息子でアイルランド卿と呼ばれるジョンは、12月17日にイングランドへ帰還した。)
――ラルフ・ド・ディセト, Ymagines Historiarum, p.129
アイルランド遠征の失敗は、ジョンの最初の独立した政治的・軍事的行動が挫折に終わったことを意味した。18歳にしてアキテーヌの反乱諸侯を制圧していたリチャードとの対比は際立つ。
ジェフリーとジョンの同盟
1184-85年のアキテーヌ問題で見たように、ジェフリーとジョンは共同でリチャードの領地に侵攻した。この同盟は偶発的なものではなく、構造的な要因に支えられていた。
アンジュー帝国の相続構造において、若ヘンリー王の死後、リチャードは実質的な最長子となり、イングランド王位の後継者として台頭した。これに対し、ジェフリーはブルターニュ公の地位にはあったものの、リチャードの台頭に脅威を感じていたと考えられる。ジョンは「欠地王」の渾名が示すとおり大陸の領地を持たない末弟であり、リチャードへの対抗馬としてジェフリーにとって格好の同盟相手であった。
ハウデンが記す共同侵攻――「村々を焼き払い略奪した」(villas succenderunt, et praedas abduxerunt)――は、ジェフリーがジョンを自らの軍事計画に組み込んでいたことを示す。ジェフリーにとってジョンは、リチャードに対する政治的均衡を保つための有用な駒であった。
しかしジェフリーは1186年8月19日にパリで急死した。馬上槍試合中の事故とも、病死とも伝えられる。(記事「三男ジェフリーの死因」参照)ジェフリーの死により、ジョンはリチャードに対抗しうる唯一の同盟者を失った。以後、末弟の政治的孤立はいっそう深まることになる。
1187-88年 シャトールー包囲とノルマンディー先遣
ジェフリーの死後、ジョンは父ヘンリー2世のもとで軍事的な役割を担い始めた。1187年、フィリップ2世がベリーに侵攻してシャトールー城を包囲した。この城にはリチャードとジョンが共に立てこもっていた。
Philippus vero rex Franciae, magno congregato exercitu, profectus est in Berriam, et obsedit Castellum Radulfi, et comitem Ricardum et Johannem fratrem suum, filios regis Angliae, intus obsedit. Et cum diu ibi moram fecisset, et castellum capere non potuisset; recessit inde […] Nam rex Angliae cum exercitu suo magno et valido illuc advenit ad auxiliandum filiis suis.
(フランス王フィリップは大軍を率いてベリーに侵攻し、シャトールー城を包囲した。城内にはイングランド王の息子であるリチャード伯と弟のジョンが立てこもっていた。長期間包囲したが城を落とせず、フランス王は撤退した。イングランド王が息子たちの救援に大軍を率いて駆けつけたためである。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.2, p.181
洗礼者聖ヨハネの降誕祭の前夜(6月23日)、教皇使節の仲裁によって戦闘は回避された。この一件は、リチャードとジョンが同じ城壁の内側で共にフランス王の包囲に耐えたという、兄弟が軍事的に連帯した数少ない場面のひとつである。それ以前のジョンの軍事経験はアイルランドでの失敗だけであり、実戦での初陣はリチャードと肩を並べてのものであった。
しかし、この直後の夏にはリチャードはパリに留まり、フィリップとの蜜月を過ごす。考え方によっては、このシャトールー包囲戦時には既にリチャードはフィリップと通じていた可能性がある。
Facta itaque pace, Ricardus dux Aquitannim, filius regis Anglie, moram fecit cum Philippo rege Francis, quem ipse in tantum honoravit per longum tempus, quod singulis diebus in una mensa ad unum catinum manducabant, et in noctibus non separabat eos lectus.
こうして和平が成立すると、イングランド王の息子であるアキテーヌ公リチャードはフランス王フィリップのもとに留まった。リチャードは長い期間、フィリップを非常に丁重に扱ったため、二人は毎日同じ卓で同じ皿から食事をし、夜も同じ寝台で眠るほどであった。
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.2 p.182
※ハウデンの著書2点でGestaではこの表記(リチャード→フィリップの愛情)、Chronicaではフィリップがリチャードを長年敬った、とある
翌1188年、フィリップ2世が再びベリーに侵攻すると(こちらもフィリップの行動はリチャードが停戦合意を破ってトゥールーズ伯領へ侵攻したことに呼応した形ではある)、ヘンリー2世はジョンを先遣隊としてノルマンディーへ送った。
…dominus rex misit Johannem filium suum in Normanniam, qui mare intravit apud Sorham, et applicuit in Normannia apud Depe. Et postea dominus rex Angliae […] naves ascendit apud Portesie; et in crastino applicuit in Normannia apud Barbefluctum.
(王はジョンを先にノルマンディーへ送り、ジョンはショアハムから海峡を渡ってディエップに上陸した。その後、王自身がポーツマスから出航してバルフルールに上陸した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.2, p.214
21歳のジョンが独立した軍事的使命を帯びて海峡を渡ったのである。父の本隊に先行して別の港から上陸するという行動は、アイルランドでの失敗から3年後のジョンが、ヘンリー2世から一定の信頼を得ていたことを示す。
ラ・フェルテ・ベルナール会談とジョンの十字軍(1189年)
1189年の五旬節の週、ラ・フェルテ・ベルナールでフィリップ2世とヘンリー2世の間の和平交渉が行われた。フィリップは姉アリスのリチャードへの嫁入りとイングランド王位の保証を求めたが、もうひとつの要求があった。
…et ut Johannes frater illius crucem susciperet Jerosolimam iturus.
((フランス王フィリップは)弟ジョンがエルサレムへの十字軍に参加するよう要求した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.2, p.241
リチャード自身もこの要求に同調し、さらに踏み込んだ発言をした。
Et hoc idem petebat comes Ricardus fieri sibi; dicebat enim quod ipse nullo modo Jerosolimam iret, nisi Johannes frater suus cum eo venisset. Et quia rex Angliae has petitiones regis Franciae et comitis Ricardi facere nolebat, discordes ab invicem discesserunt.
(リチャードも同じ要求をした。弟ジョンが同行しない限り、いかなる理由があっても自分はエルサレムへは行かないと述べた。イングランド王がこれらの要求を拒否したため、彼らは不和のまま解散した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.2, p.241
「ジョンが来なければ自分は行かない」(nullo modo Jerosolimam iret, nisi Johannes frater suus cum eo venisset)。この発言の解釈は重要である。表面上は兄弟の連帯を示す言葉だが、文脈を考えれば、リチャードは自分が十字軍で不在の間にジョンがイングランドで王位を簒奪することを恐れていたと読むのが自然である。ジョンを十字軍に連れ出すことは、監視下に置くことを意味した。ヘンリー2世がこの要求を拒否したのは、ジョンをイングランドに残して自らの権力基盤として活用しようとしていたためだろう。
この会談の決裂は、直後のボンムーラン会議でのリチャードのフィリップへの臣従に直結する。ジョンの処遇は、父と息子の最終的な決裂の引き金のひとつとなったのである。
フルク・フィッツウォリンの挿話 —少年ジョンの肖像
ジョンの幼年期の性格を伝える資料として、Fouke le Fitz Waryn の逸話がある。この作品はラルフ・オブ・コゲシャルの Chronicon Anglicanum に付載されたアングロ=ノルマン語の騎士物語であり、13世紀の成立と見られる。ジョンの同時代資料ではなく、その死後の名声(ないし悪評)を反映した文学作品である点に留意が必要であるが、ジョンの少年時代に関する数少ない具体的描写として無視しがたい。
Fouke, le jeouene, fust norry ou les iiii. fitz Henre le roy e mout ame de tous, estre de Johan; quar yl soleit sovent medler ou Johan.
(若きフルクはヘンリー王の4人の息子たちとともに育てられ、ジョンを除く全員から深く愛された。ジョンとはしばしば諍いを起こしていた。)
――Fouke le Fitz Waryn(コゲシャル, Chronicon Anglicanum 付載), p.365
物語はジョンの性格を率直に評する。
Johan… tote sa vie fust maveys et contrarious e envyous.
(ジョンは生涯を通じて邪悪で、反抗的で、嫉妬深い人物であった。)
――Fouke le Fitz Waryn, p.365
有名なチェスの逸話では、ジョンがチェス盤を取り上げてフルクを殴り、フルクがジョンの胸を蹴り返したとされる。ジョンが父王に泣きついたところ、ヘンリー2世はジョンに対して「黙れ、このろくでなし。お前はいつも争いばかり起こしている」("Tes tey, maveys. Tous jours estes conteckaunt.")と言い放った。物語はこう結ぶ。
Johan fust molt corocee a Fouke; quar unge pus ne le poeit amer de cuer.
(ジョンはフルクを深く恨み、心から愛することはなかった。)
――Fouke le Fitz Waryn, p.366
繰り返すが、これは歴史的証言ではなく、13世紀に成立した文学作品である。しかし、ジョンの死後まもない時期に、末子王子の嫉妬深さや癇癪を当然の前提として描く物語が流通していたことは、少なくともジョンの死後の評判を知るうえで意味がある。
ボンムーランから父の死まで(1188-89年)
1188年11月、ボンムーランでヘンリー2世とフィリップ2世の会談が行われた。この席でリチャードは、父がジョンをイングランド王位に就けようとしているとの噂を聞いて激昂し、父の面前でフランス王に臣従の礼をとった。ボンムーランの衝撃が示すのは、ジョンの存在がリチャードにとって現実の脅威であったということである。父がジョンを偏愛していることを、リチャードは正確に認識していた。
翌1189年、リチャードとフィリップ2世はヘンリー2世に対する軍事行動を開始した。戦況が悪化するなか、ジョンは最後に父を裏切った。ウィリアム・オブ・ニューバラはこの場面を印象的に描く。
Tunc Joannes filiorum ejus minimus, quem tenerrime diligebat, recessit ab eo, ne fratribus dissimilis et minus frater videretur.
(王が最も愛していた末息子のジョンもまた、兄たちと異ならず、兄弟として劣っていると思われないために、父のもとを去った。)
――ウィリアム・オブ・ニューバラ, Historia Rerum Anglicarum, vol.1, p.295
「兄たちと異ならず」(ne fratribus dissimilis)という表現は深い含意を持つ。ジョンの離反は、父への怒りや野心というよりも、兄たちの側に立たなければ「兄弟として劣っている」と見なされるという恐れから生じた。少なくともニューバラはそう解釈している。
ヘンリー2世は、アゼンクールの屈辱的な和平条件を受け入れた。そのなかに、リチャード陣営に寝返った者の名簿が含まれていた。ジェラルド・オブ・ウェールズは、名簿を読み上げた瞬間を描く。
"Verumne est," […] "quod Johannes, cor meum, quem prae filiis omnibus magis dilexi, cujusque promotionis causa haec omnia mala sustinui, a me discessit?"
(「私の心そのものであるジョン、他のどの息子よりも愛し、その出世のためにこれらすべての苦難に耐えてきたジョンが、私を見捨てたというのは本当か?」)
――ジェラルド・オブ・ウェールズ, De Principis Instructione, p.188
ヘンリー2世はジョンのことを「私の心」(cor meum)と呼んだ。他のどの息子よりも愛したとの言葉は、リチャードやジェフリーにとって周知の事実であっただろう。ジェラルドは続ける。
"Vadant de cetero cuncta sicut poterunt; ego de me amplius nihil neque de mundo quicquam curo."
(「もうどうにでもなれ。私は自分自身のことにも、この世の何事にも、もはや関心はない。」)
――ジェラルド・オブ・ウェールズ, De Principis Instructione, p.188
ハウデンのChronicaはより簡潔に、しかし同じ衝撃を伝える。
…invenit Johannem filium suum scriptum in principio scripti illius.
(名簿の冒頭に息子ジョンの名を見つけた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.2, p.480
「名簿の冒頭に」(in principio scripti illius)――ジョンの名が最初に書かれていたということは、裏切りの象徴としてとりわけ衝撃的であった。ヘンリー2世は1189年7月6日にシノンで死去した。
リチャードの即位とジョンへの加増
父の死後、リチャードは速やかに権力を掌握した。ジャーヴェイス・オブ・カンタベリーは、リチャードの態度の変化を記す。
Johannem quoque fratrem suum benigne suscepit, omnique deposita feritate omnibus et singulis benigne loquebatur.
(弟のジョンも温かく迎え入れ、かつての荒々しさを捨てて、一人ひとりに親切に接した。)
――ジャーヴェイス・オブ・カンタベリー, Historical Works, p.212
ウィリアム・オブ・ニューバラもリチャードの寛大さを記録する。
Praeterea circa Joannem fratrem suum uterinum rex proprium egregie declaravit affectum.
(さらに王は、同母弟のジョンに対して格別の愛情を示した。)
――ウィリアム・オブ・ニューバラ, Historia Rerum Anglicarum, vol.2, p.20
ハウデンのChronicaは、リチャードがジョンに与えた領地の全容を列挙する。
…dedit Johanni fratri suo comitatum Moretonii, et comitatum Cornubiae, et Dorsete, et Sumersete, et comitatum de Notingham, et comitatum de Derebisire, et comitatum de Loncastre, et castellum de Merleberge, et de Lutegarsale […] et honorem de Walingford, et honorem de Tikehil, et honorem de Haia; et comitatum de Gloucestria cum filia comitis, et eam fecit illi desponsari statim.
(弟ジョンにモルタン伯領、コーンウォール、ドーセット、サマセットの各伯領、ノッティンガム、ダービー、ランカスターの各伯領、マールバラとラドガーシャルの城、ウォリングフォード、ティックヒル、ヘイの各領地、そしてグロスター伯爵の娘を伴うグロスター伯領を与え、直ちに彼女と結婚させた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.3, p.158
モルタン伯領(ノルマンディー)に加え、イングランドではコーンウォール、ドーセット、サマセット、ノッティンガム、ダービー、ランカスターの各伯領、さらにウォリングフォード、ティックヒル、ヘイといった大規模な領主権が与えられた。ここでいう「オナー」とは、複数の荘園・収入・裁判権などをまとめた領主権の単位である。これは途方もない規模の加増であった。
ただし、この加増を「リチャードがジョンを全面的に信頼していた証拠」と読むのは早い。モルタン伯領はノルマンディー内の大陸側所領であり、この点ではジョンへの加増がイングランドだけに限られていたわけではない。しかし、加増の中心はあくまでイングランド側の伯領・オナー・収入源であった。リチャード自身の政治的・軍事的な重心は、ノルマンディー公領そのもの、アンジュー、ポワトゥー、アキテーヌといった大陸側の中核領土にあり、とくにアキテーヌは彼が若年期から血を流して支配してきた領土である。
ジョンに与えられたものの中心は、このリチャードにとって比較的手放しやすいイングランド側の収入源と領主権であった。加増は巨額ではあったが、リチャードは自分の中核的な大陸所領を弟に分け与えたわけではない。
さらに、このリストを仔細に見ると、もうひとつの留保が見えてくる。ジョンはこれらの地域から得られる収入や領主権を与えられた一方で、ティックヒル、ウォリングフォード、ノッティンガムなどの要衝については、城そのものを自由に支配できたわけではない。富は与える。名誉も与える。だが、大陸側の中核領土と軍事的拠点は渡さない。リチャードの寛大さには、弟を厚遇しつつも制御下に置こうとする計算が含まれていた。

リチャードのこの判断について、同時代の史料は互いに補完する。ハウデンのChronicaは、ロンドン市民がリチャード不在中の後継者としてジョンを受け入れる誓約を立てたことを記録する。
…si ipse sine prole decessisset, reciperent comitem Johannem, fratrem Ricardi regis, in regem et dominum.
(リチャード王が子を残さずに亡くなった場合には、ジョンを王として受け入れる。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.3, p.293
しかし、この誓約はリチャードの後継構想の全体像を示すものではなかった。リチャードは十字軍出発に際し、ジョンではなくブルターニュ公アルテュール(弟ジェフリーの遺児、当時3歳前後)を正式な後継者に指名している。ディセトは端的に記す。
Ricardus praedictum Arturum haeredem suum instituit, si sine prole decesserit.
(リチャードは、もし自身が子を残さずに死去した場合には、前述のアルテュールを後継者と定めた。)
――ラルフ・ド・ディセト, Ymagines Historiarum, p.176
マシュー・パリスも同様に記録する。
Ubi etiam eundem Arthurum rex constituit haeredem suum legitimum si sine haerede moreretur.
(王はまた、自身が後継者なく死去した場合には、このアルテュールを正当な後継者と定めた。)
――マシュー・パリス, Chronica Majora, vol.2, p.428
リチャードはさらに、シチリア王タンクレーディとの条約においてアルテュールを「我々の最愛の甥にして後継者」(carissimum nepotem nostrum et haeredem)と呼び、タンクレーディの娘との婚約を取り決めた(ハウデン, Gesta, vol.2, p.310)。ウィリアム・オブ・ニューバラによれば、大法官ロンシャンはリチャードの書簡を根拠にスコットランド王ウィリアムと同盟を結び、リチャードが帰還しない場合のアルテュール即位を準備していた。
…protestans regem litteris ex Massilia sive Sicilia ad se directis Arturum nepotem suum […] regni successorem designasse, et ut illi, adhuc paulo amplius quam quinquenni, regnum usque ad annos viriles servaretur mandasse.
(リチャード王がマルセイユまたはシチリアから送った書簡において、甥アルテュールを後継者に指名し、まだ5歳に過ぎない彼のために成人まで王国を保全するよう命じた、と主張した。)
――ウィリアム・オブ・ニューバラ, Historia Rerum Anglicarum, vol.2, p.54
ロンドン市民がジョンへの忠誠を誓う一方、リチャード自身は国際的な外交の場ではアルテュールを後継者として位置づけていた。この矛盾は、リチャードのジョンに対する態度の二重性を鮮明に映し出している。ジョンに富と権勢を与えながら、王位継承そのものは3歳の甥に託した。リチャードの計算が読み取れる。イングランド国内では弟を有力な領主として安定させつつ、正統な継承はアンジュー帝国の長子相続の原則に従ってジェフリーの息子に向けたのである。
しかしニューバラはこの寛大さの帰結を鋭く予見している。
Indulta enim Joanni tetrarchia, fecit eum ambire monarchiam: unde et factus est de cetero fratri infidus, et ad ultimum manifeste infestus.
(ジョンに四分封領を与えたことで、王は彼に君主の座を狙わせることになった。その結果、ジョンは兄に対して不誠実になり、最終的には明白な敵対者となった。)
――ウィリアム・オブ・ニューバラ, Historia Rerum Anglicarum, vol.2, p.21
リチャード・オブ・ディバイザスはさらに直截な言い方をしている。
John the king's brother […] was so greatly enriched and increased in England by his brother, that both privately and publicly it was affirmed by many that the king had no thoughts of returning to the kingdom, and that his brother, already no less powerful than himself, if he should not restrain his innate temper, would, impelled by the desire of sovereignty, endeavour to drive him vanquished from the realm.
(王弟ジョンは兄によってイングランドで甚だしく富み、力を増した。そのため、王は帰国する気がなく、すでに王に匹敵する権勢を持つ弟が、生来の気質を抑えられなければ、主権への欲望に駆られて兄を追放しようとするだろう、と公私を問わず噂された。)
――リチャード・オブ・ディバイザス, Chronicle, p.13
1189年9月3日、リチャードはウェストミンスターで戴冠した。アンジュー帝国の全権力は新王の手に移り、末弟ジョンはイングランド最大の領主のひとりとなった。
リチャード治世中のジョン(1190-1199年)信頼と警戒の記録
リチャード即位から死去までの10年間、ジョンの行動は一次史料に詳細に記録されている。ただし本記事の主題はジョンの全事績を追うことではない。ここでは、リチャードがジョンをどの程度信用し、どの程度警戒したかを考えるうえで必要な出来事だけを整理する。
| 時期 | ジョンの行動・処遇 | 意味 | 主典拠 |
|---|---|---|---|
| 1190年2月 | リチャードはジョンと庶子ジェフリーに3年間の渡英禁止を誓わせる。母アリエノールの懇願によりジョンのみ免除 | 出発前からジョンを潜在的な火種と見ていた | Howden Chronica v3 / Devizes |
| 1190-91年 | リチャード不在中、ジョンは王国内で勢力を拡大し、ロンシャンと対立する | 大加増が実際の権力闘争を生む | Devizes / Newburgh / Howden |
| 1191年 | ノッティンガム城・ティックヒル城などを武力で奪取 | 「城を持たせない」リチャードの警戒が現実化する | Devizes / Newburgh |
| 1192年末 | リチャード捕囚の報が届く。フィリップ2世はジョンに使者を送り、アリスとの結婚・大陸領・イングランド王位を餌に誘う | ジョンがフランス王の対リチャード工作の中心に置かれる | Howden Chronica v3 |
| 1193年初 | ジョンはノルマンディーへ渡り、貴族の臣従を得られないままフィリップのもとへ向かう。ノルマンディー・大陸領・イングランドについて臣従し、ジゾールとノルマン・ヴェクサン全域を永久割譲する | 裏切りが王位簒奪だけでなく、大陸領の譲渡を伴うものになる | Howden(RHGF t.17所収) |
| 1193年 | ジョンは武装蜂起し、複数の城を保持して抵抗する | リチャードにとって、赦しても城を返せない理由となる | Newburgh / Howden |
| 1194年2-3月 | リチャード釈放。ジョンの領地は没収され、ノッティンガム城も降伏する | ジョンの反乱は失敗に終わる | Howden Chronica v3 |
| 1194年5月 | 母アリエノールの仲介で和解。リチャードは「お前はまだ子供だ」と赦す | 寛大な赦免と家父長的な軽視が同時に現れる | Histoire de Guillaume le Maréchal / Howden |
| 1195年 | モルタン伯領などを返還。ただし城は除く。代わりに年金を与える | 感情的には赦すが、軍事的拠点は任せない | Howden Chronica v3 |
| 1196年 | フィリップ2世が偽書簡でジョンの再離反を煽るが、リチャードは信じない | 裏切り後も、ジョンを完全には切り捨てていない | Howden Chronica v4 |
| 1199年4月 | リチャードは死の床で王国と領地をジョンに譲り、宝飾品はオットーに分配する | ジョンは最も信頼された者というより、最後に残った実務上の成人後継者となる | Howden Chronica v4 |
この十年間で最も重いのは、1192-93年のフィリップ2世との共謀である。ハウデンのChronicaは、その核心を次のように記す。
Johannes autem frater Regis, Comes Moretonii, statim post Natale Domini transfretavit in Normanniam […] et ivit ad Regem Franciae, et devenit homo suus de Normannia et de omnibus aliis terris cismarinis patris sui, et de Anglia; et affidavit se ducturum in uxorem Alesiam sororem Regis Franciae […] et clamavit Regi Franciae quietum Gisortium et totum Vulcassinum Normannicum in perpetuum.
(王の弟モルタン伯ジョンはクリスマスの直後にノルマンディーへ渡った。〔中略〕ジョンはフランス王のもとへ赴き、ノルマンディーと父の全大陸領、およびイングランドについてフランス王の臣下となった。フランス王の妹アリスを妻に迎えることを誓い、ジゾールとノルマン・ヴェクサン全域をフランス王に永久に割譲した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica(RHGF t.17所収テクスト), p.614
この行動は単なる留守中の反抗ではない。ジョンは兄の捕囚を利用して、敵王フィリップ2世の臣下となり、ノルマンディーとイングランドの継承権を差し出す形で自分の王位を求めた。ウィリアム・オブ・ニューバラは、その動機をさらに厳しく断じている。
Nec Johannes, ex regni ambitu hostis naturae effectus, illis diebus a fratris infestatione quievit, sed in omnibus cooperator Francorum regis enituit.
(王位への野心から自然の摂理に反する敵となったジョンも、この時期、兄への攻撃を止めず、あらゆる面でフランス王の協力者として振る舞った。)
――ウィリアム・オブ・ニューバラ, Historia Rerum Anglicarum, vol.2, p.112
「自然の摂理に反する敵」(hostis naturae)という表現は強い。ニューバラにとって、捕囚中の兄を売ることは、政治的な寝返りである以前に、兄弟秩序そのものを破る行為であった。リチャード帰還後の処遇――赦免はするが城は返さない、領地の一部は戻すが軍事的拠点は握り続けることは、この裏切りの記憶のうえに置くと理解しやすい。
考察:各兄から見たジョン
A. 若ヘンリー王から見たジョン
若ヘンリー王(1155-1183年)は、ジョンが16歳のときに死去した。両者が直接対立した記録はなく、若ヘンリー王のジョンに対する個人的な態度は史料にほとんど現れない。
しかし、構造的には若ヘンリー王はジョンの存在を脅威と見なしていた。1173年の反乱の直接的な原因のひとつが、ヘンリー2世が末子に3つの城を与えようとしたことであった。ジャーヴェイスが「不和を招くもうひとつの火種」(aliud scandali sequentis incentivum)と呼んだこの出来事は、若ヘンリー王が自分の領地と権力の基盤が末弟への分与によって侵食されることを恐れていたことを示す。モーリエンヌ交渉でジョンへの領地譲渡を拒否したのも同じ論理である。
もっとも、若ヘンリー王の敵意はジョン個人に向けられたものではなく、父の分割政策に向けられていた。若ヘンリー王にとってジョンは、末弟という人格ではなく、父が自分の権利を削る口実として利用する存在であった。
B. ジェフリーから見たジョン
ジェフリー(1158-1186年)とジョンの関係は、兄弟三者のうちで最もわかりにくい。直接的な一次史料の証言がきわめて乏しいためである。
確かなのは、1184-85年に両者がリチャードのアキテーヌ領に対して共同で軍事行動をとったことである。ハウデンの記述――「ジェフリーと弟のジョンは軍勢を集め」(comes Gaufridus Britanniae, et Johannes frater ejus […] magnum congregaverunt exercitum)――は、ジェフリーが年長者としてジョンを自らの軍事計画に参加させたことを示す。
この同盟の動機は、反リチャードという共通の利害にあった。ジェフリーはブルターニュ公であったが、アンジュー帝国の相続序列ではリチャードの下に位置した。末弟ジョンと結ぶことで、リチャードに対する政治的な対抗勢力を形成しようとしたのである。ジョンにとってジェフリーは、自分を対等の同盟者として扱ってくれた唯一の兄であった可能性がある。ただし、これは行動から推測される関係であり、ジェフリーがジョンに対して個人的な愛情や信頼を抱いていたかどうかは、史料からは判断できない。
ジェフリーの1186年の急死は、ジョンにとって重大な転機であった。リチャードに対抗しうる唯一の兄弟同盟者を失ったジョンは、以後、父ヘンリー2世の庇護に完全に依存することになる。
C. リチャードから見たジョン
三兄弟のうち、リチャード(1157-1199年)だけがジョンの成人後の政治的行動を直接見ることになった。そのため、リチャードのジョン観は最も複層的であり、また最も多くの史料的裏付けを持つ。
リチャードのジョンに対する態度は、単純な憎悪でも、無条件の愛情でもない。むしろ、そこには三つの層が重なっている。第一に、弟を物質的に養い、家族として赦す寛大さ。第二に、弟の政治的・軍事的能力を低く見る軽視。第三に、城や後継構想をめぐる冷静な警戒である。
まず、戴冠直後の加増は疑いなく大きい。リチャードはジョンに、モルタン伯領、コーンウォール、ドーセット、サマセット、ノッティンガム、ダービー、ランカスター、グロスター伯領、さらに複数のオナーを与えた。ニューバラが「四分封領」(tetrarchia)と呼ぶほどの規模であり、ジョンはイングランド最大級の領主となった。リチャードは弟を窮乏させたのではない。むしろ父ヘンリー2世が生涯かけて実現しようとした末子の加増を、即位直後に実行したのである。
しかし、その寛大さには最初から制御が伴っていた。ティックヒルやウォリングフォードなどの要衝については、収入や領主権は与えられても、城そのものは王の手に留められた。さらに十字軍出発時には、ジョンを後継者の本命とはせず、弟ジェフリーの遺児アルテュールを正式な後継者に指名した。つまりリチャードは、ジョンに富を与えながら、王位と軍事的拠点については別の計算を保っていた。
この軽視は、ジョンの反乱が起こった後のリチャードの言葉にも表れている。十字軍中に弟の動きを聞いた際、リチャードは次のように述べた。
"Johannes frater meus non est homo qui sibi terram subjiciat, si fuerit qui vim ejus vi saltem tenui repellat."
(「我が弟ジョンは、もしその勢力をわずかでも抑える者がいれば、自ら領土を支配できるような器ではない。」)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.3, p.350
ここでリチャードは、ジョンの行動を危険視していないわけではない。実際、ジョンは城を取り、フィリップ2世と結び、王位を狙った。しかしリチャードは、ジョン自身を大きな力量を持つ敵とは見ていない。誰かが少しでも力で押し返せば、弟は領土を支配できない。これは、ジョンを脅威の種として警戒しながらも、本人の能力を高く評価していない言葉である。
1194年、帰還したリチャードはジョンを赦した。この場面を最も生き生きと伝えるのは、ウィリアム・マーシャル伝である。
"Johan, n'aiez garde. Enfes estes; en maie garde remainsistes. Mal le pensèrent cil qui mal conseil vos douèrent! Levez de ci, alez mangier."
(「ジョンよ、恐れることはない。お前はまだ子供だ。悪い連中に唆されてしまったのだ。さあ立ち上がって食事をしなさい。」)
――Histoire de Guillaume le Maréchal, vol.2, p.26
この時ジョンは27歳である。リチャードが成人した弟を「まだ子供」(enfes estes)と呼んだことは、寛大な赦免であると同時に、弟を対等な政治的主体として扱わない態度の表明でもあった。悪いのはジョンではなく、悪い助言者たちである。これは弟を守る兄の言葉であると同時に、弟から政治的責任を取り上げる言葉でもある。
フランス側ギヨーム・ル・ブルトンのPhilippideも、リチャードの赦免を記録している。
…comme il était son frère, et qu'il détestait une action également détestable à tous, Richard ne lui refusa point, bien qu'il en fût indigne, son alliance fraternelle.
(兄弟であるがゆえに、万人が忌むべき行為を憎みつつも、リチャードはジョンが値しないにもかかわらず、兄弟の絆を拒みはしなかった。)
――ギヨーム・ル・ブルトン, Philippide, p.134
英ハウデンのChronicaは、母后アリエノールの仲介による和解を記す。
Interim Johannes frater regis, comes Moretonii, rediit ad regem fratrem suum; et mediante Alienor regina matre eorum, facti sunt amici rex et ille; sed rex nullum castellum neque terram aliquam ei reddere voluit.
(ジョンは兄のもとに戻り、母后アリエノールの仲介で和解した。しかし王は城も領地も返還しようとしなかった。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.3, p.404
のちにリチャードは伯領の一部と年金を返還したが、城は除外した。
Ricardus rex Angliae remisit Johanni fratri suo omnem iram et malivolentiam suam; et reddidit ei comitatum de Moretonia […] exceptis castellis; et pro omnibus aliis comitatibus et terris suis dedit ei rex per annum octo millia librarum Andegavensis monetae.
(リチャード王はジョンへのすべての怒りと悪意を赦し、モルタン伯領を返還した。ただし城は除く。他のすべての伯領と領地の代わりに、年8000アンジュー・リーヴルの年金を与えた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.3, p.438
「すべての怒りと悪意を赦し」(remisit […] omnem iram et malivolentiam suam)、しかし「城は除く」(exceptis castellis)。この組み合わせに、リチャードのジョン観が凝縮されている。感情としては赦す。家族としては受け入れる。だが軍事的拠点は渡さない。弟は赦免の対象であっても、信頼して城を任せる対象ではなかった。
この態度は、甥たちへの処遇と比べるとさらに見えやすい。ここで確認しておきたいのが、アルテュールとオットー(後の神聖ローマ皇帝オットー4世)である。アルテュールは、すでに触れたように弟ジェフリーの遺児であり、アンジュー家の男系継承を考えるうえでジョンよりも正統性を持ちうる甥であった。一方のオットーは、ヘンリー2世の娘マティルダとザクセン公ハインリヒ獅子公の子であり、リチャードにとっては姉の息子にあたる甥である。1182年、父を追放されて母とともにアンジュー家の宮廷へ身を寄せた彼は、若い頃からリチャードの期待を受ける立場にあった。
ここで重要なのは、リチャードがジョン、アルテュール、オットーを同じ役割で見ていたわけではない、という点である。ジョンには国内の富と成人男子としての実務性があった。アルテュールには王位継承の正統性があった。オットーには、国際政治上の大きな家門戦略を託す余地があった。三者は単純な競合相手ではなく、リチャードの構想の中で別々の場所に置かれていた。
まず、王位継承の本命は当初ジョンではなかった。リチャードは十字軍出発に際し、弟ジェフリーの遺児アルテュールを後継者に指名している。シチリア王タンクレーディとの条約では、アルテュールは「我々の最愛の甥にして後継者」(carissimum nepotem nostrum et haeredem)と呼ばれた。これは冷たい排除というより、アンジュー家の継承原理に沿った判断である。長兄若ヘンリーが死に、ジェフリーも死んだ以上、ジェフリーの子であるアルテュールは、少なくともリチャードの構想ではジョンよりも正統な次世代と見なされた。
しかし、この構想は安定しなかった。帰還後、リチャードはアルテュールの保護権を確保しようとしたが、ブルターニュ側はそれを拒んだ。ウィリアム・オブ・ニューバラが記す。
Cum enim idem rex ejusdem nepotis sui tunc decennis usque ad annos legitimos tutelam exposceret, […] primi Britonum quadam magis suspicione quam cautela id ipsum non ferentes, et pro ipso puero fortiter aemulantes, cum eo a facie patrui imminentis ad interiora Britanniae secesserunt.
(王が当時10歳であった甥の成年までの保護権を要求した際、ブルターニュの有力者たちは慎重さというより疑念からこれを拒み、少年のために強く抵抗して、迫りくる叔父の面前から彼を連れてブルターニュの奥地へ退いた。)
――ウィリアム・オブ・ニューバラ, Historia Rerum Anglicarum, vol.2, p.184
アルテュールは血統上は有力な後継候補であった。しかし彼は幼く、ブルターニュの有力者と母コンスタンスに守られ、リチャードの手元にはいなかった。そしてリチャードの死後、コンスタンスはアルテュールを直接フィリップ2世へ引き渡した。
Constantia vero mater Arturi, comitissa Britanniae, venit Turonim, et tradidit Philippo regi Franciae Arturum filium suum; quem rex Franciae statim misit Parisius custodiendum, ad Lodowicum filium suum.
(ブルターニュ女伯コンスタンスはトゥールへ赴き、息子アルテュールをフランス王フィリップに引き渡した。フランス王は直ちに彼をパリへ送り、息子ルイのもとで養育させた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.4, p.209
かつてリチャードが後継者として指名した甥は、最終的に敵国の王の保護下へ入った。アルテュールは正統な甥ではあったが、リチャードの死の床でただちに王国を受け取れる人物ではなくなっていた。
一方、オットーは別の意味でリチャードの信任を受けた甥である。1196年、ジョンから城を取り上げていた時期に、リチャードは姉マティルダの子であるオットーにまずヨーク伯領を与えようとした。ハウデンのChronicaが記す。
Eodem anno Ricardus rex Angliae dedit Othoni nepoti suo, filio Matildis sororis suae, quondam ducissae Saxoniae, comitatum Eboraci.
(同年、イングランド王リチャードは姉マティルダの息子である甥のオットーにヨーク伯領を与えた。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.3, p.238
ヨーク伯領が現地の抵抗で実現しなかった際には、代わりにポワトゥー伯領を与えた。ポワトゥーは、かつてジョンに渡すことをリチャードが拒んだアキテーヌ公領の中核であり、アリエノール・ダキテーヌから受け継いだアンジュー家の相続領そのものである。さらに1195年には、スコットランド王の長女マーガレットとの婚約を通じて、スコットランド王位継承までオットーに用意しようとした(ハウデン, Chronica, vol.3, pp.451, 460)。1198年には、あらゆる手段を尽くしてオットーをドイツ王に選出させた。アーノルド・フォン・リューベックによれば、リチャードはこの選挙工作に15万マルクもの資金を投じている。
ただし、オットーもジョンの単純な代替後継者ではなかった。彼は母マティルダを通じた女系の甥であり、アンジュー家の直系男子ではない。リチャードが彼に託したのは、イングランド王位そのものというより、帝国・ポワトゥー・スコットランドを視野に入れた国際的な家門戦略であった。オットーはリチャードにとって、弟ジョンより大きな信頼を置ける若い親族であったが、死の床でそのままアンジュー帝国を継がせられる候補ではなかった。
この三者の位置を並べると、リチャードの選択は見えやすくなる。アルテュールは正統だが、幼く、ブルターニュとフランスの手に移りうる。オットーは信頼できる甥だが、神聖ローマの帝国政治の中に入り、アンジュー家の直系後継者ではない。ジョンは信頼しきれないが、成人した同母弟であり、イングランド国内に巨大な基盤を持ち、ただちに王国を受け取れる唯一の人物だった。
そして1199年、リチャードは王国と領地をジョンに譲りながら、宝飾品はすべてオットーに分配した。
…et omnia baubella sua divisit Othoni.
(すべての宝飾品をオットーに分配した。)
――ロジャー・オブ・ハウデン, Chronica, vol.4, p.205
この処分は象徴的である。ジョンには王国と領地が渡る。だがそれは、リチャードがジョンを信頼していたからというより、最後に残った実務上の選択肢がジョンだったからである。一方で、リチャードの情と期待の一部は、なおオットーに向いていた。宝飾品の遺贈は王位継承そのものではない。しかし、リチャードが死の間際まで、弟以外の若い親族にも将来の構想を重ねていたことを示している。
まとめれば、リチャードにとってジョンは「物質的に養うべき弟」であり、「政治的には軽んじうる未熟者」であり、「軍事的拠点は任せられない人物」であった。リチャードはジョンを憎みきったわけではない。むしろ赦し、富ませ、最後には王位も譲った。だがその中心にあったのは、対等な信頼よりも、兄としての庇護と軽侮であった。ジョンの戴冠前夜は、兄に最も信頼された弟が順当に王位へ進んだ物語ではなく、他の選択肢が消えていくなかで、最後に成人した同母弟だけが残った物語だった。
三人の兄はそれぞれ異なるかたちでジョンに向き合った。若ヘンリー王にとってジョンは父の分割政策の道具であり、ジェフリーにとっては反リチャードの同盟者であり、リチャードにとっては養うべきだが恐れるに足りない弟であった。共通するのは、いずれの兄もジョンを対等な政治的主体として認めていなかったことである。1189年9月のリチャードの戴冠式の時点で、22歳のジョンはイングランド最大の領主のひとりでありながら、同時に「まだ子供」と見なされうる存在であった。この乖離が、以後の王位簒奪の試みと、最終的な即位の背景をなしている。
参考文献
- Robert de Torigni, Chronicle, ed. R. Howlett, Rolls Series 82, London, 1889 (vol. 4).
- Roger of Howden, Gesta Regis Henrici Secundi Benedicti Abbatis, ed. W. Stubbs, Rolls Series, London, 1867 (vols. 1–2).
- Roger of Howden, Chronica, ed. W. Stubbs, Rolls Series, London, 1868–1871 (vols. 2–3).
- Gervase of Canterbury, Historical Works, ed. W. Stubbs, Rolls Series, London, 1879–1880.
- Ralph de Diceto, Ymagines Historiarum, ed. W. Stubbs, Rolls Series, London, 1876.
- Matthew Paris, Chronica Majora, ed. H. R. Luard, Rolls Series, London, 1874 (vol. 2).
- William of Newburgh, Historia Rerum Anglicarum, ed. R. Howlett, Rolls Series, London, 1884–1885 (vols. 1–2).
- Gerald of Wales (Giraldus Cambrensis), De Principis Instructione, ed. G. F. Warner, Rolls Series, London, 1891.
- Gislebert of Mons, Chronique de Hainaut, ed. L. Vanderkindere, Brussels, 1904.
- Richard of Devizes, The Chronicle of Richard of Devizes, trans. and ed. J. A. Giles, London: James Bohn, 1841.
- Ralph of Coggeshall, Chronicon Anglicanum, ed. J. Stevenson, Rolls Series, London, 1875.
- Including Fouke le Fitz Waryn (Anglo-Norman romance, 13th century, appended to Coggeshall's Chronicon).
- Paul Meyer (ed.), L'Histoire de Guillaume le Maréchal, vol. 2, Paris, 1894.
- Guillaume le Breton, Philippide, in Oeuvres de Rigord et de Guillaume le Breton, ed. H.-F. Delaborde, vol. 2, Paris, 1885.