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	<title>リチャフィリ | Le Lion et le Lys</title>
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	<description>12世紀歴史創作＆歴史史料考察サイト</description>
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		<title>フィリップ2世はなぜリチャード1世を見限ったのか</title>
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		<dc:creator><![CDATA[noc]]></dc:creator>
		<pubDate>Wed, 24 Jun 2026 05:37:25 +0000</pubDate>
				<category><![CDATA[アンジュー家]]></category>
		<category><![CDATA[カペー家(フランス王家)]]></category>
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					<description><![CDATA[リチャード1世とフィリップ2世の関係は、はじめから単純な敵対関係であったわけではない。むしろ一次史料は、二人の関係をきわめて強い親愛の言葉で記録している。 二人の関係は1187年に突然始まったものでもない。リチャードは少 [&#8230;]]]></description>
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<p class="wp-block-paragraph">リチャード1世とフィリップ2世の関係は、はじめから単純な敵対関係であったわけではない。むしろ一次史料は、二人の関係をきわめて強い親愛の言葉で記録している。</p>



<p class="wp-block-paragraph">二人の関係は1187年に突然始まったものでもない。リチャードは少年期に、まだ幼いフィリップのいるパリ宮廷で<strong>フィリップの父ルイ7世から騎士に叙されており</strong>（記事「<strong><a href="https://hist.estampie.work/knighting/">誰が誰を騎士にしたか</a></strong>」参照）、15歳でアキテーヌ公となって以降はフランス王の封臣でもあった。さらにフィリップがまだ十代半ばでフランドル伯との対立にさらされていた頃にも、</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Henricus rex filius regis, dux Aquitanorum Ricardus, Gaufridus dux Britonum, foecundae matris gloria memorialis, absentiam patris sui regis Anglorum virtute magna supplere volentes, ut consiliis malignantium, innocentiam Philippi regis Francorum opprimere nequiter intendentium, viribus totis occurrerent, copiosum undique congregarunt exercitum.</p>



<p class="wp-block-paragraph">若ヘンリー王、アキテーヌ公リチャード、ブルターニュ公ジェフリー、実り多き母の誉れ高き記念碑たる三人は、イングランド王である父の不在を強大な武勇によって補おうとし、フランス王フィリップの「無垢」（innocentiam）を悪意をもって貶めようとする邪悪な者たちの計略を全力で打ち砕くべく、各地から膨大な軍勢を招集した。</p>



<p class="wp-block-paragraph">――ラルフ・ド・ディセト, Ymagines Historiarum, p.99</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">とラルフ・ド・ディセトが記している。対するフランドル側の記録でも、若ヘンリー王（ノルマンディー公としてフランス王の封臣）とアキテーヌ公リチャードがフランス王軍の旗を掲げて加わっていたとされる。つまり、リチャードはフィリップにとって、若い頃からフランス王権の周辺にいた、長い付き合いのある王侯だった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">1187年、ヘンリー2世とフィリップ2世の間に和平が成立すると、アキテーヌ公リチャードは父のもとへ戻らず、フランス王フィリップの側に留まった。この時期の二人の親密さは、<strong>「同じ食卓」「同じ皿」「同じ寝台」</strong>という表現で語られる。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Facta itaque pace, Ricardus dux Aquitanniae, filius regis Angliae, moram fecit cum Philippo rege Franciae, quem ipse in tantum honoravit per longum tempus, quod <strong>singulis diebus in una mensa ad unum catinum manducabant, et in noctibus non separabat eos lectus.</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">（和平が成立すると、イングランド王の息子であるアキテーヌ公リチャードは、フランス王フィリップのもとに留まった。リチャードは長い間彼を深く敬愛し、<strong>毎日同じ食卓で同じ皿から食事をとり、夜も寝台が二人を分けなかった。</strong>）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.182</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">続く記述では、フィリップがリチャードを「我が身のように愛した」とされる。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Et <strong>dilexit eum rex Franciae quasi animam suam</strong>; et in tantum se mutuo diligebant, quod propter <strong>vehementem dilectionem</strong> quae inter illos erat, dominus rex Angliae nimio stupore arreptus admirabatur quid hoc esset.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（<strong>フランス王はリチャードを我が身のように愛した</strong>。二人は互いに深く愛し合い、その<strong>激しい愛</strong>のために、イングランド王ヘンリー2世は驚愕し、何事かと訝しんだ。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.182</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">この親密さは、ヘンリー2世にとって政治的な脅威でもあった。ハウデンは、ヘンリー2世がこの「愛」が何を企んでいるのかを疑ったと記す。二人の関係は、甘い友愛だけではなく、最初から政治的な危険を帯びていたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">本記事では、その後の二人の関係を少し別の角度から見る。すなわち、<strong>リチャードがフィリップにかけた迷惑</strong>である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">もちろん、ここでいう「迷惑」は、単なる笑い話ではない。<strong>フィリップはフランス王であり、リチャードはイングランド王ではあるが大陸側の領土に関してはノルマンディー公・アキテーヌ公としてフランス王の封臣であった。</strong>同時に二人は十字軍の同志であり、条約上の友人でもあった。その関係の中でリチャードが取った行動は、しばしばフィリップの面子、権威、安全、そして感情を揺さぶった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">重要なのは、これらの出来事を見たあとでも、<strong>フィリップが帰国直後にリチャード領へ軍事侵攻したわけではない</strong>、という点である。フィリップは1191年に聖地から帰国する際、リチャードの領土を守ると誓っている。そしてリチャードが聖地で戦い続けていた間、フィリップがリチャード領へ軍事侵攻した記録は一次史料上見えない。<strong>決定的な破約と侵攻は、リチャードが捕囚されたことを知った後、1192年末から1193年初頭に始まる。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">以下、親密期からメッシーナ、アッコン、そして捕囚後の破局までを時系列に沿って追う。</p>



<h2 class="wp-block-heading">親密さから臣従へ</h2>



<p class="wp-block-paragraph">まず確認しておきたいのは、リチャードはフィリップを困らせる以前に、父ヘンリー2世を大いに困らせていた、ということである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">1187年の親密期を経たのち、翌1188年11月、ボンムーランの会談で両者の関係はさらに進む。リチャードは、父が自分を退けてジョンを王位に就けようとしていると聞き、怒りを露わにした。そして父の面前で、フランス王であるフィリップに臣従の礼を行う。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Commoto autem comite Ricardo eo quod audisset patrem suum velle Johannem amoto Ricardo promovere in regnum… et <strong>conversus ad regem Franciae discinctus gladio, astante patre, videntibus cunctis qui aderant, protensis manibus eidem fecit homagium</strong>, ipsius implorans auxilium, ne jure debito privaretur.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（リチャードは、父が自分を退けてジョンを王位に就けようとしていると聞いて怒った。……そして<strong>父の面前で、居合わせた全員の前で剣帯を解き、フランス王に手を差し伸べて臣従の礼を行い</strong>、正当な権利を奪われないよう援助を求めた。）<br>――ジャーヴェイス・オブ・カンタベリー, <em>Historical Works</em>, p.210</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">これはフィリップにとって、ヘンリー2世を追い詰める大きな政治的特異点であった。しかも、この臣従はその場限りの儀礼では終わらない。翌1189年、フィリップとリチャードは実際に手を組んでヘンリー2世を軍事的に追い詰めていく。メーヌからトゥーレーヌへ続く戦いの中で、ヘンリー2世はル・マンを失い、退却を重ね、ついにはリチャードを後継者として認める方向へ追い込まれた。父に対して息子がフランス王を頼り、その息子より8つも年下のフランス王は息子を自分の臣下として抱え込み、共に自分を追い詰めてくる。この構図そのものが、ヘンリー2世にとっては耐えがたい屈辱だったはずである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">したがって、フィリップとリチャードの親密さは、単なる私的な友愛ではなかった。二人は父王ヘンリー2世を挟んで、感情と政治の両面で結びつき、実際にアンジュー帝国の老王を追い詰めた共同戦線でもあったのである。しかし同時にそれは、フィリップがリチャードという強烈な人物を自分の側に引き受けることでもあった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">この時点でリチャードは、単なる同盟者ではない。フィリップの親しい相手であり、封建的にはその臣下でもある。後の十字軍で問題となるのは、まさにこの二重性であった。リチャードはフィリップを主君として認める。だが実際の行動では、しばしば主君の面子を踏み越える。</p>



<h2 class="wp-block-heading">友人にして主君、友人にして臣下</h2>



<p class="wp-block-paragraph">1189年、リチャードがイングランド王となると、二人は第三回十字軍へ向けて関係を整える。ノナンクールの条約では、両王は互いを「友人」と呼び合った。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…ego Philippus, rex Francorum, Ricardo, regi Anglorum, <strong>tanquam amico et fideli meo</strong>, et ego Ricardus, rex Anglorum, Philippo, regi Francorum, <strong>tanquam domino meo et amico</strong>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（我フランス王フィリップは、イングランド王リチャードに対し、<strong>我が友人にして忠実な臣下として</strong>。我イングランド王リチャードは、フランス王フィリップに対し、<strong>我が主君にして友人として</strong>。）<br>――<em>Recueil des actes de Philippe Auguste</em>, vol.1, p.397</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">ここでも関係は二重である。フィリップから見たリチャードは、友人であり忠実な臣下である。リチャードから見たフィリップは、主君であり友人である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">したがって、十字軍中のリチャードの振る舞いは、単なる仲間同士の衝突では済まない。フランス王の面子、主君としての権威、そして個人的な親愛が同時に傷つけられることになる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ギヨーム・ル・ブルトンの韻文叙事詩 <em>Philippide</em> は、十字軍に出発した二人を「同じ愛情、同じ精神、同じ信仰」によって結ばれた王として描きながら、すぐにその終わりを予告する。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Voici deux rois qu'une même affection, un même esprit, une même foi unissent et lient tellement l'un à l'autre […] mais une si grande tendresse ne peut subsister long-temps entre eux.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（ここに、同じ愛情、同じ精神、同じ信仰によって結ばれた二人の王がいる。……しかし、これほど強烈な親愛の情も、長くは続かなかった。）<br>――ギヨーム・ル・ブルトン, <em>Philippide</em>, p.120</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">「長くは続かなかった」。その破綻の大きな舞台が、第三回十字軍の出陣地シチリアのメッシーナであった。</p>



<h2 class="wp-block-heading">ヴェズレーへ――共に出発した二人</h2>



<p class="wp-block-paragraph">フィリップとリチャードは、別々に勝手に聖地へ向かった王たちではない。第三回十字軍に際し、二人はヴェズレーで合流し、そこから共にエルサレムへ向かうことを予定していた。言い換えれば、<strong>二人は「同じ巡礼へ一緒に行く」</strong>ことを、条約と誓約によって確認していたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">この予定は、まず出発前の誓約として史料に現れる。ハウデンによれば、フィリップはパリの会議で、十字を受けた王国の諸侯とともにヴェズレーへ集まり、そこからエルサレムへ向かうことを福音書に触れて誓った。そしてその証としてリチャードに書簡を送り、リチャードとその伯・男爵たちも同じ期日にヴェズレーへ来るよう求めた。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…rex Franciae, in generali concilio Parisius, juraverat tactis sacrosanctis evangeliis, et omnes principes regni sui, qui crucem susceperant, quod, Deo volente, immutabiliter erunt apud Vizeliacum ad clausum Pascha, inde Jerosolimam ituri… petens ab eo, ut ipse et comites et barones sui facerent illi simili modo securum, quod ad eundem terminum essent apud Vizeliacum.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フランス王はパリの一般会議で、十字を受けた王国の諸侯とともに、神の意志のもと、復活祭の終わりにヴェズレーに集まり、そこからエルサレムへ向かうことを聖なる福音書に触れて誓った。フランス王はその誓約の証としてイングランド王に書簡を送り、王とその伯・男爵たちも同じ期日にヴェズレーへ集まるよう求めた。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.3, p.171</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">もっとも、準備は予定通りには進まなかった。当初の復活祭頃の出発は間に合わず、エルサレムへの旅は洗礼者聖ヨハネの祝日頃まで延期された。ハウデンはこの延期について、両王が準備を整えられなかったため、ヴェズレー集合を改めて定めたと記している。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そして重要なのは、これが単なる予定で終わらなかったことである。1190年夏、フィリップとリチャードは実際にヴェズレーで会合した。ハウデンは、聖マリア・マグダレナの遺体が安置されているヴェズレーで二人の王が合流し、二日間滞在したと記す。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Deinde idem rex et Philippus rex Franciae convenerunt apud Vizeliacum, ubi requiescit corpus beatae Mariae Magdalenae: et facta est ibi mora duarum dierum…</p>



<p class="wp-block-paragraph">（その後、この王〔リチャード〕とフランス王フィリップは、聖マリア・マグダレナの遺体が安置されているヴェズレーで会合した。そこで二日間滞在した。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.3, p.189</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">フランス側のリゴールも同じ合流を記録している。フィリップはサン＝ドニで聖遺物の祝福を受けて出発し、ヴェズレーでリチャードと合流した。そこでは、十字軍に参加しない諸侯に暇を与え、母アデルと叔父ランス大司教ギヨームに、幼いルイを含むフランス王国の留守を託している。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…feria quarta post octavas sancti Joannis Baptiste cum rege Anglie Richardo apud Vizeliacum venit…</p>



<p class="wp-block-paragraph">（聖ヨハネの八日祭の後の水曜日、王はイングランド王リチャードとともにヴェズレーに到着した。）<br>――リゴール, <em>Gesta Philippi Augusti</em>, p.99</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">この場面でまず強調すべきなのは、出発時点での二人の足並みである。親密な関係を史料に残した二人は、条約で互いを「友人」と呼び合い、ヴェズレーで実際に落ち合い、同じ巡礼へ向かった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">マシュー・パリスは、この合流後の動きも続けて記している。二人の王はヴェズレーから全軍を率いてローヌ川沿いのリヨンへ進んだ。ところが、軍勢がリヨンに到着した際、人々の重みでローヌ川の橋が崩落し、多くの男女が川に落ちる事故が起きた。十字軍の規模は、それほどまでに大きかったのである。そこで両王はリヨンで別行動を取ることになる。フランス王はジェノヴァへ、イングランド王はマルセイユへ向かった。別々の港へ向かったのは、十字軍の規模が大きすぎたためであった。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…duo reges, Francorum videlicet et Anglorum, convenerunt apud Vizeliacum… et per duos dies ibi moram fecerunt… Deinde reges cum tota multitudine profecti venerunt ad Lugdunum super Rodanum… Postea vero reges divisi sunt ab invicem propter nimiam hominum multitudinem… rex Francorum versus Jenuensem civitatem iter arripuit, et rex Anglorum versus Messanam.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フランス王とイングランド王の二人は、ヴェズレーで会合し、二日間滞在した。その後、両王は全軍を率いてローヌ川沿いのリヨンへ向かった。のち、あまりの軍勢の多さにより、二人は別行動をとった。フランス王はジェノヴァへ、イングランド王はメッシーナ方面へ向かった。）<br>――マシュー・パリス, <em>Chronica Majora</em>, vol.2, p.363</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">二人はヴェズレーで合流し、同じ巡礼へ出た王であり、互いを守るべき巡礼の同志であった。だからこそ、その後のメッシーナで起こる出来事は、フィリップにとって単に「リチャードが目立った」というだけでは済まないものになっていく。</p>



<p class="wp-block-paragraph">なお、この時点で第三回十字軍はすでに動き出していた。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世バルバロッサは、フィリップとリチャードに先んじて陸路で東方へ向かっていた。（年代記は、1190年6月10日、皇帝がサレフ川で溺死したことを伝えている。）したがって、ヴェズレーで合流した西方の二王は、老皇帝が先に率いていた十字軍の大きな流れを追う形で出発したことになる。</p>



<h2 class="wp-block-heading">メッシーナ到着：先着のフィリップを圧倒する</h2>



<p class="wp-block-paragraph">1190年9月16日、フィリップはメッシーナに到着した。シチリア王タンクレーディの宮殿に迎え入れられ、比較的静かに入城した。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph"><strong>Philippus rex Francorum applicuit apud Messanam xvito kalendas Octobris, et hospitatus est in palatio regis Tancredi.</strong><br>（フランス王フィリップは10月16日前のカレンダエ〔=9月16日〕にメッシーナに到着し、タンクレード王の宮殿に宿泊した。）<br>――ラルフ・ド・ディセト,&nbsp;<em>Ymagines Historiarum</em>, p.84</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">リチャード・ド・テンプロのItinerarium Peregrinorumではフィリップの到着を「人目を避けるように（slinks into Messina, shunning the gaze of men）」と描写し、後述のリチャードの華々しい入港と対比する。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">rex Franciae, cujus emisso tot principes, tot terrarum nationes parent edicto, cum Messanae civitatis nunciareturapplicaturus ad portum, omnis aetas, omnis sexus, cujuscunque conditionis indigenae ad tam famosum regemprosiluerunt videndum. Ille vero una tantum nave contentus, tanquam visus hominum refugiens, in ipsius urbiscastelli portum latenter se ingessit.<br>フランス王フィリップの到着が報じられると、あらゆる年齢・身分の住民が、かの有名な王を見ようと駆けつけた。しかし王はたった一隻の船に乗り、まるで人目を避けるかのように、街の城の港に密かに滑り込んだ。<br>――リチャード・ド・テンプロ, Itinerarium Peregrinorum (Stubbs), vol.1, p.358</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">その一週間後、9月23日、リチャードが到着する。ハウデンが記すその光景は、フィリップの到着とは対照的である。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…cum buciis multis, et aliis magnis navibus, et galeis, in tanta gloria, et sonitu tubarum et buccinum, quod tremor apprehendit eos qui in civitate erant. Rex vero Francie et sui, et omnes principes civitatis Messanæ, et clerus et populus, stabant in littore admirantes super his que videbant et audierant de rege Angliæ, et de potestate ejus.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（多くの小舟や大型船、ガレー船を率い、トランペットや角笛の音を響かせて、街の人々が震え上がるほどの威光を放って到着した。フランス王とその家臣、メッシーナの諸侯、聖職者、市民たちは、イングランド王の権勢を目の当たりにして岸辺で驚嘆した。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.1, p.212</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">リチャード・オブ・ディバイザスは、この対比をさらに露骨に書く。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…wondering and proclaiming with what exceeding glory and magnificence that king had arrived, <strong>surpassing the king of France</strong>, who with his forces had arrived seven days before.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（人々は、この王がいかに卓越した栄光と威厳をもって到着したかを驚嘆し称えた。<strong>7日前に軍勢を率いて到着していたフランス王を凌いで</strong>。）<br>――リチャード・オブ・ディバイザス, <em>Chronicle</em>, p.23</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">「フランス王を凌いで」。先に到着していたフィリップの存在感は、リチャードの大艦隊と楽器の轟音によって上書きされた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">これだけなら、王の華やかな入城で済むかもしれない。しかし、メッシーナでの半年間は、この「リチャードの方が目立つ」構図から始まった。ハウデンによれば、リチャードと会談したフィリップは、その日のうちに出航しようとした。しかし風向きが変わり、「悲嘆しつつ不本意ながら」（dolens et invitus）メッシーナへ引き返すことになった。まだ本格的な決裂前であるにもかかわらず、フィリップにとってメッシーナ滞在は初日から気分のよいものではなかった。</p>



<h2 class="wp-block-heading">メッシーナ制圧と旗の事件</h2>



<p class="wp-block-paragraph">10月3日、イングランド軍とメッシーナ市民の間で衝突が起きた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ハウデンによれば、リチャードは最初、自軍の兵士を杖で打ち据えてまで攻撃を止めようとした。しかし制止は失敗し、戦闘は全面化する。イングランド軍はメッシーナを制圧し、城壁の各所にイングランド王の旗を掲げた。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…per vim portas civitatis fregerunt, et murum undique ascenderunt, et ita ingredientes civitatem obtinuerunt, et statim signa regis Angliae in munitionibus per circuitum murorum posuerunt.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（武力で市の門を打ち破り、城壁をよじ登り、市内を制圧した。直ちに城壁の各所にイングランド王の旗を掲げた。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.3, p.210</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">問題は、そこにフィリップがいたことである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">フィリップはフランス王であり、<strong>リチャードにとっては大陸領における主君である。</strong>そのフランス王が滞在する都市の城壁に、リチャードの旗だけが翻る。これは、軍事的にも象徴的にも挑発的な行為であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">アンブロワーズは、フランス側の反応をこう伝える。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…le roi de France, qui, ainsi que ses gens, était jaloux et chagrin de ce qu'il les y avait dressées, lui fit dire qu'il fallait que ses hommes abattissent ces bannières et fissent dresser celles de France sur les murs de la cité…</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フランス王とその家臣たちは、この旗の掲揚に嫉妬と不快感を抱いた。フランス王はリチャードに、旗を降ろし、代わりにフランスの旗を市壁に掲げるよう求めた。）<br>――アンブロワーズ, <em>Estoire de la Guerre Sainte</em>, p.288</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">アンブロワーズはさらに、この行為が主君に対する義務に背くものであり、フィリップに大きな不快を与えたと述べる。最終的には仲介により、両王の旗を掲げることで妥協が成立した。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ここでの問題は、単なる軍事衝突ではない。リチャードは街を制圧した。その結果、フィリップは自らの面子を守るために抗議せざるを得なくなったのである。</p>



<h2 class="wp-block-heading">市内を譲り、山上に砦を築く</h2>



<p class="wp-block-paragraph">メッシーナ制圧後、リチャードは市壁の外の山上に砦を築いた。名をマテグリフォンという。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…firmavit sibi castellum forte in supercilio montis ardui extra muros civitatis Messanæ, quod Mategriffun vocaverunt.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（メッシーナの市壁の外にある険しい山の頂上に堅固な城を築いた。人々はそれをマテグリフォンと呼んだ。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.3, p.219</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">「マテグリフォン」は「ギリシア人を懲らせ」という意味を含む名で、メッシーナ市民への威圧をそのまま城の名にしたようなものである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ジャーヴェイス・オブ・カンタベリーは、この配置を一見穏やかに記す。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Ut autem regi Franciæ debitum servaret honorem, concessit eidem hospitia civitatis, sibique in montis adjacentis vertice munitionem erexit.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フランス王への然るべき敬意を表して、リチャードは市内の宿舎をフィリップに譲り、自らは隣接する山の頂に砦を築いた。）<br>――ジャーヴェイス・オブ・カンタベリー, <em>Chronica</em>, p.213</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">市内はフィリップに譲る。これは一応、礼儀である。しかし同時に、リチャードは山上に砦を築き、市内を見下ろす位置を取った。フィリップは宮殿にいる。リチャードは山上の砦にいる。和平交渉のたびに、仲介者たちは宮殿とマテグリフォンの間を往復することになった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">表面上は譲歩であり、軍事的には優位の誇示である。メッシーナにおける両王の関係は、この配置によく表れている。</p>



<h2 class="wp-block-heading">メッシーナのクリスマス――まだ共に宴を囲む二人</h2>



<p class="wp-block-paragraph">しかし、メッシーナ滞在を単純な敵対の連続としてだけ見ると、二人の関係を少し平板にしてしまう。緊張が積み重なっていた一方で、リチャードとフィリップはまだ、同じ十字軍の王として同じ祝祭を囲む関係でもあった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そのことがよく見えるのが、1190年のクリスマスである。ハウデンは、降誕祭の日にフランス王フィリップとイングランド王リチャードがシチリアのメッシーナで「共に」（simul）いたと記す。（関連記事「<strong><a href="https://hist.estampie.work/anjou_christmas/">アンジュー家のクリスマス</a></strong>」）</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Philippus rex Franciae et Ricardus rex Angliae fuerunt simul in Sicilia apud Messanam die Nativitatis Dominicae.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フランス王フィリップとイングランド王リチャードは、降誕祭の日にシチリアのメッシーナで共にいた。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.325</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">この日の宴は、リチャードが築いたマテグリフォン城で行われた。アンブロワーズは、クリスマスの祝宴が「イングランド王が建てた広間」で催されたと記している。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">A Matesgrifou fud la feste […] La fête fut à Mategriffon, dans la salle que le roi d'Angleterre avait construite.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（祝宴はマテグリフォンで、イングランド王が建てた広間で行われた。）<br>――アンブロワーズ, <em>Estoire de la Guerre Sainte</em>, p.291</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">さらにアンブロワーズは、リチャードが皆に来て共に祝ってよいと触れさせ、フランス王を自らの宴に招き入れたと伝える。ハウデンはフィリップ本人の招待までは明記せず、シャルトル司教、ブルゴーニュ公、ヌヴェール伯、ペルシュ伯ら、フランス王の家臣団のほぼ全員がリチャードと宴席を共にしたことを記すにとどまる。しかし少なくとも、フランス王の周囲の人々が、リチャードの城の祝宴に大きく参加していたことは確かである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ここには、メッシーナにおける二人の関係の二面性が出ている。マテグリフォンは、メッシーナ市民への威圧として築かれた城であり、フィリップから見ればリチャードが山上から市内を見下ろす軍事的拠点でもあった。だがその同じ城で、リチャードは降誕祭の宴を開き、フィリップとその家臣団を迎え入れている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">つまり、メッシーナのリチャードは、ただフィリップを冷たく突き放していたわけではない。むしろリチャードの側には、フィリップを主君であり巡礼の同志として立てようとする身振りも残っていた。問題は、その歓待と同じ場所に、旗の事件、山上の砦、武力制圧、そして後の密書事件が同居していたことである。フィリップが次第にリチャードに愛想を尽かしていくとしても、リチャードからフィリップへ向かう温度は、単純な冷却では説明しにくい。</p>



<p class="wp-block-paragraph">なお、このクリスマスの会食は穏やかなまま終わらなかった。ハウデンによれば、昼食後にピサ人とジェノヴァ人の間で暴動が起こり、両王の周囲の人々は武装して鎮圧に向かうことになる。メッシーナの祝祭は、歓待と緊張が同じ日に重なる場でもあった。</p>



<h2 class="wp-block-heading">密書事件：二度、山に登るフィリップ</h2>



<p class="wp-block-paragraph">メッシーナ滞在中、シチリア王タンクレーディはリチャードに対し、フィリップが自分を攻撃するよう唆したと告げた。ブルゴーニュ公を通じて、リチャードは和平も信義も守らず、この王国を奪うために来たのだ、もしタンクレーディがリチャードを攻撃するならフランス王は協力する、という内容であったという。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ハウデンによれば、リチャードは最初、これを容易には信じなかった。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">"Proditor non sum, nec fui, nec ero; et pacem, quam vobiscum feci, in nullo sum transgressus, nec transgrediar quamdiu vixero: et de facili credere non possum, quod rex Franciæ hæc de me vobis mandaverit, cum ipse dominus meus sit, et socius adjuratus in illa peregrinatione."</p>



<p class="wp-block-paragraph">（「私は裏切り者ではないし、かつてもそうではなかったし、これからもそうなることはない。あなたと結んだ和平を破ったことはなく、生きている限り破ることもない。フランス王が私についてそのようなことをあなたに告げたとは容易に信じがたい。彼は私の主君であり、この巡礼における誓約の仲間なのだから。」）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.3, p.250</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">ここでリチャードは、フィリップを<strong>「私の主君」「誓約の仲間」</strong>と呼んでいる。これは重要である。メッシーナで不和が芽生えていたとしても、少なくともこの場面のリチャードは、フィリップを単なる敵として扱っていない。むしろ「自分の主君であり、同じ巡礼で誓約した仲間だから、そのような裏切りは信じがたい」と言っている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">だからこそ、タンクレーディの告発はリチャードにとって衝撃的だった。しかしタンクレーディは、証拠として書簡をリチャードに渡した。</p>



<p class="wp-block-paragraph">その後、リチャードはフィリップに対して怒りを抱き、にこやかな顔も平和の約束も見せなくなった。リチャードが出発しようとすると、フィリップはそれを止めに行く。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ジャーヴェイスは、この場面を簡潔ながら印象的に記録している。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…Timens autem rex Franciæ, ne solus relinqueretur in medio barbarorum, egressus de civitate venit in montem, regemque Ricardum voce supplici delinivit, retinuit et rediit. Rursus retecta proditione… rex Franciæ secundo ascendit in montem, et voce submissa litteras illas sigillo suo impressas abnegavit.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フランス王は、異教徒の中に一人取り残されることを恐れて市内を出て山に登り、嘆願の声でリチャードをなだめ、引き留めて戻った。再び裏切りが発覚し、リチャードがまた出発しようとすると、フランス王は二度目に山へ登り、低い声で、自らの印章が押されたその書簡を否認した。）<br>――ジャーヴェイス・オブ・カンタベリー, <em>Chronica</em>, pp.213–214</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">「嘆願の声で」（voce supplici）。「低い声で」（voce submissa）。</p>



<p class="wp-block-paragraph">フランス王が二度、山に登る。一度目はリチャードをなだめるため。二度目は、自らの印章が押された書簡を否認するためである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">この場面では、フィリップの立場が著しく弱く描かれている。彼は同盟者としてリチャードを引き留めなければならず、同時に自らへの疑いを晴らさなければならなかった。メッシーナでのフィリップは、主君でありながら、山上のリチャードに対して弁明を強いられる存在として現れる。</p>



<h2 class="wp-block-heading">アリス問題の決裂</h2>



<p class="wp-block-paragraph">リチャードとフィリップの間には、もともとアリス問題があった。フィリップの姉アリスは、長くリチャードの婚約者とされていた。しかしリチャードは、父ヘンリー2世が彼女と関係を持ち、子をもうけたという噂を理由に、結婚を拒んだ。</p>



<p class="wp-block-paragraph">メッシーナでこの問題はついに表面化する。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ハウデンの<em>Chronica</em>によれば、フィリップは、もしリチャードがアリスを捨てて別の妻を娶るなら、生きている限り彼とその一族の敵となると宣言した。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">"…sed pro certo sciat, quod si ille dimiserit eam, et aliam duxerit in uxorem, <strong>ero illi et suis inimicus quamdiu vixero.</strong>"</p>



<p class="wp-block-paragraph">（「もし彼女を捨てて別の妻を娶るなら、<strong>生きている限り彼とその一族の敵となる</strong>ことを、彼は確かに知るがよい。」）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.1, p.256</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">リチャードは、父がアリスと関係を持ったため結婚できないと答えた。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><em>Philippide</em>は、この場面でのリチャードの言葉をより劇的に描く。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">"Bon roi, à qui la France obéit, <strong>dont je suis le chevalier</strong>… je t'en supplie, que les paroles que je vais te dire ne te déplaisent pas. Je te rends ta sœur…"</p>



<p class="wp-block-paragraph">（「フランスが従う善き王よ、<strong>私はあなたの騎士ですが</strong>……どうか私の言葉にお怒りにならないでください。あなたの妹をお返しします……」）<br>――ギヨーム・ル・ブルトン, <em>Philippide</em>, p.120</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">「私はあなたの騎士ですが」。ここでもリチャードは、フィリップを主君として呼びかけている。しかしその上で、フィリップの姉妹を返すと言う。主君への礼儀の形を取りながら、その内容はフィリップの家の名誉を深く傷つけるものだった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ギヨーム・ル・ブルトンは、この瞬間からリチャードはフィリップにもその家臣にも心を開かなくなり、フィリップもまた同じ好意を持たなくなったと記す。</p>



<p class="wp-block-paragraph">メッシーナでの問題は、旗や砦だけではなかった。婚約、名誉、家族、主従関係、同盟、個人的親愛がすべて絡み合った決裂であった。</p>



<h2 class="wp-block-heading">葦試合：遊戯が王の名誉問題に変わる</h2>



<p class="wp-block-paragraph">1191年2月2日、聖母マリアの清めの祝日の午後。両軍の騎士たちは、メッシーナ市外で遊戯に興じていた。ハウデンの<em>Gesta</em>は、リチャードとその家臣、そしてフランス王の家臣たちが、いつものように複数の遊戯をしていたと記す。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ここで行われたのは、正式な馬上槍試合ではない。実戦用の槍も、試合用のランスもない。帰路、市内を通っていた一行は、葦を積んだ驢馬を連れた農夫に出会った。彼らはその葦を取り、互いに打ち合い始めた。いわば、即席の槍試合ごっこである。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Mense Februarii, die Purificationis Dei genitricis Mariae, Sabbato, post prandium, Ricardus rex Angliae et multi milites de familia ejus, et multi de familia regis Franciae convenerunt, more solito, extra civitatem Messanam pluribus jocis intenti… obviaverunt cuidam rustico venienti de villa cum onusto asello arundinibus quas cannas vocabant, de quibus rex Angliae, et ceteri qui cum eo comitabantur, ceperunt, et unusquisque illorum alter adversus alterum congressus est.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（2月、神の母マリアの清めの祝日の土曜日、昼食後、イングランド王リチャードとその家臣の多く、またフランス王の家臣の多くが、いつものようにメッシーナ市外で遊戯に興じていた。彼らは帰路、市中を通っていたところ、葦――彼らはこれをカンナと呼んだ――を積んだ驢馬を連れた農夫に出会った。イングランド王と同行者たちはその葦を取り、それぞれが互いに打ち合った。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.330</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">ここまではただの戯れであった。ところが、リチャードの相手が<strong>ギヨーム・デ・バール</strong>になったとき、事態は一変する。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ギヨーム・デ・バールは、フランス王家臣団の中でも名高い騎士である。しかも彼は、かつてマント近郊でリチャードと戦い、リチャードの手から逃れた人物でもあった。リチャードにとっては、単なる相手役ではない。すでに因縁のある、フィリップ側随一の騎士だった。このギヨームは後年、フィリップとジョンとの決着とも言えるブーヴィーヌの戦い(1214年)でも、フィリップの身を守りながら大いに活躍することになる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ハウデンが記す展開は、ほとんど笑い話のようでいて、王の名誉に関わる事件でもある。リチャードとギヨームは葦を打ち折った。ギヨームの打撃で、リチャードの外套が裂けた。そこでリチャードは怒り、ギヨームに突進した。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…fregerunt arundines suas. Fracta est cappa regis ex percussione Willelmi; unde iratus rex impetum fecit in Willelmum, ita quod ipsum Willelmum et equum suum titubare fecit: et dum intenderet eum dejicere in terram, declinavit sella regis, descenditque celerius rex et protenus alium fortiorem ascendit; iterumque impetum faciens in eundem Willelmum dejicere non valuit: Willelmus enim adhaesit collo equi sui; et comminatus est ei rex.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（両者は葦を打ち折った。ギヨームの打撃で王の外套が破れた。そこで王は怒り、ギヨームに突進して彼とその馬をよろめかせた。王は彼を地面に叩き落とそうとしたが、王の鞍がずれ、王はすばやく降りて、すぐにより強い馬に乗り換えた。再びギヨームに突進したが、やはり落とすことはできなかった。ギヨームが馬の首にしがみついたからである。王は彼を脅した。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.331</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">葦の打ち合いで外套が裂けた。そこで王は本気になり、相手を馬ごと倒そうとする。しかし、落ちかけたのはギヨームではなく、リチャードの方だった。鞍がずれたため、王はすばやく降り、より強い馬に乗り換えて再び突進する。それでもギヨームを落とせなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">この場面の面白さは、リチャードが「遊びで負けかけた」ことだけではない。相手が、フランス王フィリップの騎士だったことである。即席の葦試合とはいえ、イングランド王がフランス王の家臣に打たれて外套を裂かれ、二度突進しても落とせなかった。これは王の面子に関わる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">レスター伯の息子ロバート・ド・ブルトゥイユが助太刀しようとすると、リチャードはそれを止めた。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">"Sustine," ait rex, "et dimitte me et illum solum."</p>



<p class="wp-block-paragraph">（「待て」と王は言った。「私と彼だけにしておけ。」）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.331</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">この一言は、リチャードの性格をよく示している。助けは要らない。王と騎士、一対一で決着をつける。だが、それでもリチャードはギヨームを倒せなかった。遊戯はすでに遊戯ではなくなり、王はついに怒りの宣告を発する。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">"Fuge hinc, et cave tibi, ne amplius coram me compareas, quia amodo et tibi et tuis ero inimicus perpetuus."</p>



<p class="wp-block-paragraph">（「ここから立ち去れ。二度と私の前に姿を見せるな。今後、私はお前とお前の一族の永遠の敵となる。」）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.331</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">葦を用いた遊びの打ち合いから、「永遠の敵」宣言である。ここで問題になるのは、ギヨームが一人の騎士であるだけでなく、フィリップの家臣だったことだった。リチャードがギヨームを許さないなら、フィリップは自分の騎士を守れない王になる。かといって、リチャードの怒りを正面から否定すれば、今度はリチャードの王としての名誉を傷つけることになる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">そのため、フィリップはきわめて低姿勢で動く。翌日、フィリップはギヨームのためにリチャードのもとを訪れ、「謙虚な嘆願をもって和解と慈悲を求めた」。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">In crastino venit rex Franciae ad regem Angliae ex parte Willelmi des Barres, cum humili deprecatione pacem et misericordiam postulans.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（翌日、フランス王はギヨーム・デ・バールのためにイングランド王のもとを訪れ、謙虚な嘆願をもって和解と慈悲を求めた。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.3, p.246</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">フィリップはここで、リチャードを立てている。自分の騎士を守るために動きながらも、命令ではなく嘆願の形を取る。リチャードの名誉が傷ついたことを認め、その怒りを鎮める形で赦免を願っているのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph">それでもリチャードはすぐには許さなかった。さらに翌日には、シャルトル司教、ブルゴーニュ公、ヌヴェール伯、そしてフランス王国の多くの貴族たちが膝をついて嘆願した。葦の遊戯から始まった一件は、フランス王と司教・諸侯を巻き込む赦免問題にまで膨れ上がった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">この逸話は、リチャードを貶めるための後世の笑い話ではない。<strong>ハウデンというイングランド側の年代記</strong>に、かなり具体的な動作まで記録されている。葦で遊んでいたはずが、外套を裂かれ、鞍がずれ、より強い馬に乗り換え、それでも相手を落とせず、ついには「永遠の敵」と宣言する。メッシーナのリチャードは、ここでもフィリップに面倒な後始末を背負わせたのである。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<h2 class="wp-block-heading">キプロスとアッコン：利益と名声をめぐる不満</h2>



<p class="wp-block-paragraph">メッシーナで生じた不和は、シチリアを離れれば消えたわけではなかった。むしろ聖地へ向かう過程で、フィリップの側に積もる不満はさらに増えていく。</p>



<p class="wp-block-paragraph">まず問題になったのがキプロスである。リチャードはメッシーナ出発後、嵐に遭った艦隊とベレンガリア・ジョアンナをめぐる事情からキプロスへ向かい、同島を征服した。ここで彼は皇帝イサキオスを捕らえ、皇帝の娘と財宝を得る。フィリップは、メッシーナでの合意にもとづき、その獲得物の半分を求めた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">しかしリチャードは、フィリップがフランドルの半分を自分に与えるなら、こちらも自分の獲得物の半分を与えようと返した上で、両王の合意はあくまでエルサレムの地における獲得物に限られると答えた。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">rex Francie petiit a rege Anglie medietatem totius insule Cypre […] Cui respondit, "Si dederis mihi medietatem Flandrie […] et ego dabo tibi medietatem totius acquisitionis meae; licet, conventio facta fuerit inter nos de adquisitionibus nostris in terra Jerosolimitana tantummodo."</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フランス王がキプロス島全体の半分を求めると、リチャードは「そなたがフランドルの半分を私に与えるなら、私も自分の獲得物の半分を与えよう。もっとも、我々の合意はエルサレムの地における獲得物に限られていたが」と答えた。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.171</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">リチャード側から見れば、キプロスは「エルサレムの地」ではない。したがって合意の対象外だという理屈は成り立つ。だがフィリップ側から見れば、共に十字軍へ向かったはずの相手が、途中で大きな島と財宝を得ながら、それを分けようとしなかったことになる。ここでも、リチャードには弁解の余地があるが、フィリップには不満の種が残る。</p>



<p class="wp-block-paragraph">アッコンに到着してからも、両王の差は目立った。フィリップが騎士たちに月三ベザントを支給すると、リチャードは四ベザントを提示したと伝えられる。これは単なる気前のよさではない。十字軍の軍勢の中で、どちらの王がより兵を引きつけ、どちらの王がより大きな名声を得るかという問題であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ラルフ・オブ・コゲシャルは、フィリップが帰国を望むようになった背景として、リチャードが財宝に富み、報酬を惜しみなく配り、軍勢も多く、敵を攻める激しさでも勝り、その卓越した栄光によってフィリップ自身の名声がかすむと感じたことを挙げる。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">esset in thesauris locupletior, in donativis erogandis profusior, in exercitu numerosior, in expugnatione hostium ferocior, reputans pro alterius excellentiori gloria famam probitatis ejus obfuscari.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（リチャードは財宝においてより富み、賜与においてより気前よく、軍勢においてより多く、敵の攻略においてより猛々しかった。フィリップは、相手のより卓越した栄光によって、自分の武名が曇らされると考えた。）<br>――ラルフ・オブ・コゲシャル, <em>Chronicon Anglicanum</em>, p.34</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">これは、メッシーナでの派手な入港と同じ構図である。リチャードは悪意をもってフィリップを小さく見せようとしたとは限らない。しかし結果として、リチャードが輝けば輝くほど、フィリップはその影に置かれる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">さらに、エルサレム王位をめぐる問題でも両王は対立した。リチャードはギー・ド・リュジニャンを支持し、フィリップは<strong>コンラート・ド・モンフェラート</strong>を支持した。ハウデンは、この件で両王の間にしばしば争いと論争が起こったと記す。ラルフ・オブ・コゲシャルも、リチャードがフィリップの意志を完全に妨げたことを、不和の種のひとつとしている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ここまで来ると、もはや問題はメッシーナだけではない。リチャードはフィリップをまだ主君として呼ぶことがある。しかし行動の上では、フィリップの面子、利益、名声、政治的意志を何度も上書きしていくのである。</p>



<h2 class="wp-block-heading">疑念と恐怖――サラディン、毒、暗殺者</h2>



<p class="wp-block-paragraph">アッコ前後のフィリップの不信は、名誉や利益の問題だけではなかった。より直接的な恐怖もあった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ギヨーム・ル・ブルトンの <em>Gesta Philippi Augusti</em> は、リチャードがサラディンと頻繁に使者を交わし、互いに贈り物を受け取っていたため、フィリップがリチャードを疑いの目で見ていたと記す。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Richardus rex Anglie frequentes mittebat nuncios ad Saladinum, et mutua dona recipiebat ab eo, et ideo Philippus rex eumdem Richardum regem suspectum habebat.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（イングランド王リチャードはサラディンへ頻繁に使者を送り、互いに贈り物を受け取っていた。そのためフィリップ王は同じリチャード王を疑っていた。）<br>――ギヨーム・ル・ブルトン, <em>Gesta Philippi Augusti</em></p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">フィリップはアッコンで重病にも倒れた。ギヨーム・ル・ブルトンは、爪や髪が抜け落ち、毒を受けたのではないかと考えられたと記す。ジルベール・ド・モンスに至っては、フィリップが病に倒れた際、イングランド王が毒を用いて彼の死を企てていると言われていた、と明記する。</p>



<p class="wp-block-paragraph">もちろん、これは「リチャードが本当に毒を盛った」という証明ではない。むしろ重要なのは、<strong>この頃にはそうした疑いが流通するほど、両王の間の信頼が損なわれていたことである。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">1192年には、<strong>コンラート・ド・モンフェラート暗殺をめぐる疑惑</strong>がさらに大きな影を落とす。コンラートがアサシンに殺されると、フランス側の史料は、リチャードがその背後にいたと疑った。ギヨーム・ル・ブルトンは、リチャードの唆しでフィリップ自身を殺すためにもアサシンが送られたと信じられ、以後フィリップが忠実な護衛を置き、鉄または青銅の棍棒を手にするようになったと記す。</p>



<p class="wp-block-paragraph">これもまた、現代の意味でそのまま事実認定できる話ではない。だが、フィリップがリチャードをどのような危険人物として見るようになっていたかは示している。メッシーナで傷ついた信頼は、アッコで名声と利益をめぐる競争になり、やがて「リチャードは自分を殺すかもしれない」という恐怖にまで変わっていく。</p>



<h2 class="wp-block-heading">アッコンでの帰国願いと「永遠の恥辱」</h2>



<p class="wp-block-paragraph">アッコン陥落後、フィリップは病に倒れ、帰国を望んだ。ここで再び、リチャードはフィリップを困らせる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ハウデンによれば、フィリップの使者たちはリチャードの前で泣き崩れ、一言も発せられなかった。その涙に周囲も誘われて泣いた。リチャードは「泣くな。何を言いたいのかは分かっている」と言った上で、フィリップが目的を果たさずに帰国することは、彼とフランス王国にとって「永遠の恥辱」（dedecus et opprobrium sempiternum）だと答えた。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…proruperunt <strong>in fletum</strong> ita quod unum solum verbum proferre non potuerunt. […] Rex Angliae respondit: "<strong>Dedecus est et opprobrium sempiternum</strong> illi et regno Franciae, si imperfecto negotio pro quo venit recesserit."</p>



<p class="wp-block-paragraph">（彼らは<strong>泣き崩れ</strong>、一言も発することができなかった。……イングランド王は答えた。「彼が来た目的を果たさずに去るなら、それは彼とフランス王国にとって<strong>永遠の恥辱</strong>である。」）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2, p.357</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">フィリップは病身で帰国を望んだ。リチャードはそれを恥だと言った。</p>



<p class="wp-block-paragraph">もちろんリチャード側から見れば、十字軍の目的を果たさずに帰ることへの怒りである。しかしフィリップ側から見れば、体調不良と王国の事情を抱えながら、同盟者に面子を削られる場面であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ただし、ここで注意しなければならないことがある。フィリップは帰国を望み、リチャードはそれを非難した。だがフィリップは、帰国直後にリチャード領へ軍事侵攻したわけではない。</p>



<h2 class="wp-block-heading">それでもフィリップはリチャードの領土を守ると誓った</h2>



<p class="wp-block-paragraph">フィリップは1191年7月31日に帰国する。ジャーヴェイスは、<strong>フィリップが「平和の接吻」</strong>（in osculo pacis）をもってリチャードを聖地に残したと記す。</p>



<p class="wp-block-paragraph">さらにベテューヌの匿名年代記によれば、帰国時、フィリップはリチャードに対し、海のこちら側の彼の領土を自分の領土と同じように守り、決して攻撃しないと誓った。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">…ot en couvent li rois Phelippes au roi Richart que il li garderoit sa tierre de chà la mer comme la soie, et en nulle manière ne l'attaquerait.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フィリップ王はリチャード王に対し、海のこちら側の彼の領土を自分の領土と同様に守り、決して攻撃しないと誓った。）<br>――ベテューヌの匿名年代記, <em>Histoire des ducs de Normandie</em>, p.82</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">この誓約は、ノナンクール条約の相互保護条項とも重なる。両王は不在中の領地への攻撃を禁じ、正義に従わない者は破門と相続権剥奪の対象とすることを定めていた。またメッシーナでも、聖遺物にかけて、十字軍の往復の旅路において互いとその軍勢を誠実に守ることを誓っている。</p>



<p class="wp-block-paragraph">したがって、フィリップが帰国したこと自体を、ただちに「破約」と読むのは早い。1191年8月から1192年10月の帰路開始まで、リチャードが聖地で戦い続けていた間、フィリップがリチャード領へ軍事侵攻した記録は一次史料上見えない。フィリップが行ったのは、ノルマンディーの執事にアリスの返還を求めたことなどにとどまる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ただし、これを「フィリップは何もしていなかった」と読むのもまた単純すぎる。後の史料は、リチャードがまだ聖地にいる1192年の段階で、フィリップの使者がジョンに接触していたことを伝える。親リチャード色の強い著者にはなるがリチャード・ド・テンプロの<em>Itinerarium Peregrinorum</em> は、ジョンが母后アリエノールの説得にも耳を貸さず、自らの意志で動いていたことに加え、フランス王からも「度重なる使者」によって促されていたと記す。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Johannem fratrem regis […] a rege quoque Franciae crebris intercurrentibus nunciis sollicitabatur.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（王の弟ジョンは……フランス王からも度重なる使者によって促されていた。）<br>――<em>Itinerarium Peregrinorum</em>, Stubbs ed., p.561</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">ここで見えるのは、軍事侵攻ではなく、政治工作である。フィリップはリチャードの領土へただちに兵を入れたわけではない。しかし、メッシーナとアッコンで不和を深めた後、リチャード不在の状況を利用してジョンへ働きかけ始めていた可能性は高い。</p>



<p class="wp-block-paragraph">つまり、時系列は三段階に分けた方がよい。第一に、メッシーナで傷つけられる以前には、二人はヴェズレーで合流し、共に聖地へ向かう王として出発していた。第二に、メッシーナからアッコンにかけて不信と不満が深まり、フィリップ帰国後にはジョンへの工作が始まる。第三に、リチャード捕囚の知らせを受けて、その工作が明確な破約と軍事行動へ変わる。</p>



<h2 class="wp-block-heading">フィリップだけではない、リチャードが作った敵</h2>



<p class="wp-block-paragraph">ここまで見てきたのは、主にフランス王フィリップの側から見たリチャードである。だがリチャードが十字軍で面子を潰した相手は、フィリップだけではなかった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">第3回十字軍のリチャードは、軍事的にはきわめて華々しい。アッコ攻略後も聖地に残り、エルサレム奪還こそ果たせなかったものの、巡礼者が聖地を訪れる道を確保した。この点で彼が後世に「<strong>獅子心王</strong>」として持て囃されるのは自然である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">しかしその一方で、<strong>リチャードは各地で王侯の恨みを買っていた。</strong>ハウデンは、オーストリア公レオポルトがリチャードを捕らえた理由として、アッコ包囲戦で公を軽視したこと、レオポルトの血縁にあたるキプロス公イサキオスを捕らえたこと、そして同じく親族にあたるコンラート・ド・モンフェラート殺害に関与した疑いを挙げている。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Una siquidem et efficiens causa fuit quod eum in obsidione Aconae quasi abjectum reputavit, quod etiam Ysaachium principem Cypri et uxorem suam ad sanguinem suum pertinentes captivavit; quod etiam Chunradum filium amitae suae interemisse suspectus habebatur.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（有力な理由の一つは、アッコ包囲戦で彼〔レオポルト〕を軽んじたこと。また、公の血縁にあたるキプロス公イサキオスとその妻を捕らえたこと。そして、公の叔母の子であるコンラートを殺害した疑いを持たれていたことである。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.3, p.148</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">このうち最も有名なのが、アッコ陥落後の旗の事件である。<strong>オーストリア公レオポルトが自ら確保した場所に旗を掲げると、リチャードはそれを引きずり下ろして泥の中に踏みにじらせたと複数の史料が伝える。</strong>ザンクトブラジエンのオットーは、リチャードが公の旗を塔から降ろし、泥で踏ませ、さらに侮辱的な言葉を浴びせたと書く。</p>



<p class="wp-block-paragraph">これが、のちの捕囚に直結する。</p>



<p class="wp-block-paragraph"><strong>リチャードは十字軍の帰路、通常の王としての姿では帰れなかった。</strong>フランス王の領土も危険であり、オーストリア公の領内も危険だったからである。そこで彼は、王としての装いを捨て、少数の従者だけを連れて身分を隠し、急いで通り抜けようとした。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ザンクトブラジエンのオットーは、リチャードがウィーン近郊の宿屋で、<strong>正体を隠すために召使いのように自ら料理をしていた</strong>と記す。串に刺した肉を自分の手で回して焼いていたが、指にはめた高価な指輪を隠し忘れたために露見したという。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">servili opere, ne agnosceretur, in coctione pulmentorum per se dans operam, altile ligno affixum propria manu vertens assabat, anulum egregium in digito oblitus.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（正体が知られぬよう、召使いの仕事として自ら料理に励み、串に刺した肉を自分の手で回して焼いていた。しかし、指にはめた高価な指輪を忘れていた。）<br>――ザンクトブラジエンのオットー, <em>Chronica</em>, p.77</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">別伝では、豪華すぎる買い物をした従者の少年から正体が疑われたともいう。細部は史料ごとに異なるが、重要なのは、リチャードが堂々と王として帰れず、<strong>変装して逃げるように帰国しようとしていた点である。</strong></p>



<p class="wp-block-paragraph">つまりリチャードの捕囚は、単なる不運ではない。十字軍での彼は、聖地の英雄であると同時に、フィリップ、レオポルト、コンラート派、さらには帝国側にまで警戒と敵意を蓄積させた人物でもあった。だからこそ、帰路は危険になり、変装は必要になり、捕囚の知らせを受けたフィリップは、それを政治的好機として利用できたのである。</p>



<h2 class="wp-block-heading">破約はリチャード捕囚後に軍事化する</h2>



<p class="wp-block-paragraph">事態が決定的に変わるのは、リチャードが帰路で捕らえられた後である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">1192年12月、リチャードはオーストリア公レオポルトに捕らえられ、やがて神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世の手に渡る。この知らせを受けて、フィリップはジョンへの働きかけを本格化させる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ハウデンは、フィリップがしばしばイングランドのモルタン伯ジョンへ使者を送り、リチャードは捕囚中であり、もはや皇帝の拘束から出られないと告げたと記す。そして、もしジョンがフィリップの意向と助言に従うなら、妹アリスを妻として与え、ノルマンディー、アキテーヌ、アンジューを返し、さらにイングランド王国の獲得を助けると約束した。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">frequenter misit nuncios suos in Angliam ad Johannem fratrem regis, comitem Moretonii, mandans ei qualiter rex captivus tenebatur, et quod ipse nunquam exiret de captione imperatoris Alemanniae; adnectens quod, si ille voluntati illius et consilio adquiesceret, daret ei Alesiam sororem suam in uxorem, et redderet ei Normanniam, et Aquitanniam, et Andegaviam […] et quod ipse adquireret ei regnum Angliae.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（フィリップは頻繁にイングランドのモルタン伯ジョンのもとへ使者を送り、リチャード王が捕囚されており、二度とドイツ皇帝の拘束から出ることはないと伝えた。そして、もしジョンが自分の意向と助言に従うなら、妹アリスを妻として与え、ノルマンディー、アキテーヌ、アンジューを返し、イングランド王国の獲得を助けると約束した。）<br>――ロジャー・オブ・ハウデン, <em>Chronica</em>, vol.3, p.183</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">ここで、1192年の「工作」は、捕囚後の「同盟」と「侵攻」へ移る。ラルフ・オブ・コゲシャルも、リチャードが皇帝のもとに拘束されていると聞いた後、ジョンが兄の帰還を疑い、フィリップと友好の盟約を結んだと記す。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ジルベール・ド・モンスは、クリスマスから四旬節の間にフィリップがイングランド王の領土に侵攻し、いくつかの城を占領したと記す。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Eodem anno <strong>inter natale Domini et quadragesimam</strong> Philippus rex Francorum in regis Anglorum terram insurrexit et quaedam castra occupavit.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（同年の<strong>クリスマスから四旬節の間</strong>に、フランス王フィリップはイングランド王の領土に侵攻し、いくつかの城を占領した。）<br>――ジルベール・ド・モンス, <em>Chronicon Hanoniense</em>, p.253</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">1193年4月12日、フィリップはジゾールを奪取し、ノルマンディーのヴェクサンを支配下に置いた。</p>



<blockquote class="wp-block-quote is-layout-flow wp-block-quote-is-layout-flow">
<p class="wp-block-paragraph">Anno Domini MCXCIII, pridie idus aprilis, Philippus rex collecto exercitu cepit Gisortium, et, brevi temporis elapso spatio, totum Vulcassinum Normannicum quod rex Angliae injuste possidebat, in suam redegit potestatem.</p>



<p class="wp-block-paragraph">（1193年4月12日、フィリップ王は軍を集めてジゾールを奪取し、短期間のうちにイングランド王が不当に保持していたノルマンディーのヴェクサン全域を支配下に置いた。）<br>――リゴール, <em>Gesta Philippi Augusti</em>, vol.1, p.136</p>
</blockquote>



<p class="wp-block-paragraph">この段階で、フィリップは明確に誓約を破っている。だが、流れを精密に見るなら、破約は一瞬で起きたものではない。メッシーナで不和が芽生え、アッコン後にジョンへの接触が始まり、リチャード捕囚によってそれが軍事行動へ転じたのである。</p>



<h2 class="wp-block-heading">積み重なった屈辱と破約</h2>



<p class="wp-block-paragraph">では、フィリップはなぜリチャードをここまで憎むようになったのか。</p>



<p class="wp-block-paragraph">原因は一つではない。アリス問題、十字軍での主導権争い、フランドル問題、ノルマンディー・ヴェクサンをめぐる王権の利害、ジョンの野心、そしてリチャード捕囚という巨大な機会。すべてが絡んでいる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ただし、本記事の軸としては、まず<strong>「メッシーナで傷つけられるまでは、二人の関係は良好な形で動いていた」</strong>と見ておきたい。1187年の親密期があり、1188年の臣従があり、1189年の条約では友人・主君・臣下として互いを位置づけ、1190年にはヴェズレーで合流して共に十字軍へ出発した。少なくとも出発時点の二人は、敵同士ではなく、同じ巡礼に向かう王たちであった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">その関係が、メッシーナで傷つき始める。</p>



<p class="wp-block-paragraph">リチャードは、大艦隊と楽器の響きで華麗に到着し、先着のフィリップをかすませた。メッシーナを武力制圧し、フランス王が滞在する街に自分の旗を掲げた。市内を譲る一方で、山上にマテグリフォン城を築き、軍事的優位を誇示した。クリスマスにはフィリップとその家臣団を自らの宴に迎えたが、その宴の場自体が、メッシーナ住民を威圧するマテグリフォンであった。密書事件では、フィリップを二度も山へ登らせ、嘆願と弁明を強いた。アリス問題では、フィリップの家の名誉に関わる婚約を破棄した。葦試合では、フィリップの騎士ギヨーム・デ・バールへの怒りを長引かせ、フィリップやその臣下たちへ嘆願を行わせた。</p>



<p class="wp-block-paragraph">メッシーナを離れてからも、不満は消えない。キプロス征服では獲得物の分配をめぐって揉め、アッコンでは金払いと武名でフィリップをかすませた。エルサレム王位問題では、フィリップが推すコンラートに対し、リチャードはギーを支持した。サラディンとの使節交換は疑念を呼び、毒殺疑惑やコンラート暗殺後のアサシン疑惑は、フィリップの恐怖を増幅させた。アッコンでは、病身で帰国を望むフィリップに対し、目的を果たさずに去ることは永遠の恥辱だと言った。</p>



<p class="wp-block-paragraph">これらは、ひとつひとつを単独で見れば、リチャード側にも弁解の余地がある。</p>



<p class="wp-block-paragraph">上陸は王としての威儀であり、メッシーナ制圧は自軍を守るためだった。マテグリフォン城は治安維持のためとも言える。クリスマス宴会は、むしろ歓待であった。密書事件では、実際にフィリップ側の不穏な動きがあった可能性もある。アリス問題は、ヘンリー2世の醜聞が絡む以上、リチャードにも結婚拒否の理由があった。葦試合のギヨーム・デ・バールは、リチャードにとって以前からの因縁の相手だった。フィリップの帰国に対する批判も、十字軍の目的を重視する立場からは理解できる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">だが、フィリップから見れば別である。</p>



<p class="wp-block-paragraph">主君としての面子を潰される。友人として疑われる。姉妹の婚約を破棄される。自分の騎士を敵視される。病身での帰国を恥だと言われる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">それでもフィリップは、帰国時にはリチャードの領土を守ると誓った。そして実際、リチャードが聖地にいる間には軍事侵攻を始めていない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">ただし、1192年にはジョンへの接触が始まっていたと見られる。ここに、フィリップの心理と政治が重なっていく。メッシーナ以前の良好さは消え、メッシーナ以後の傷が積もり、アッコン後にはジョンを通じてリチャード不在の情勢を探る。そして捕囚という決定的な好機が訪れると、その政治工作はついに破約と侵攻へ変わる。</p>



<p class="wp-block-paragraph">だからこそ、フィリップを「最初から裏切るつもりだった」と読むのは単純すぎる。より自然なのは、<strong>メッシーナで傷つけられるまでは良好だった関係が、メッシーナで損なわれ、アッコンから帰還後に政治工作へ移り、捕囚後に軍事的破約へ至った</strong>、という段階的な読みである。</p>



<h2 class="wp-block-heading">結び――愛された臣下は、扱いにくかった</h2>



<p class="wp-block-paragraph">リチャードとフィリップの関係は、「愛」から「敵意」へ単純に転落しただけではない。</p>



<p class="wp-block-paragraph">彼らは主君と臣下であり、友人であり、十字軍の同志であり、婚姻同盟の当事者であり、大陸領をめぐる政治的競争相手でもあった。だからこそ、リチャードの一つ一つの行動は、フィリップに対して複数の意味を持った。</p>



<p class="wp-block-paragraph">リチャードが華麗に振る舞えば、フィリップの威光がかすむ。リチャードが街を制圧すれば、フィリップの主君としての面子が傷つく。リチャードが砦を築けば、フィリップは軍事的に見下ろされる。リチャードがアリスを返せば、フィリップの家の名誉が傷つく。リチャードがギヨーム・デ・バールを許さなければ、フィリップの騎士を守る王としての立場が問われる。リチャードが帰国を恥だと言えば、フィリップ自身とフランス王国の名誉が傷つく。</p>



<p class="wp-block-paragraph">しかもその相手は、かつて「我が身のように愛した」と記された男であり、「同じ皿」「同じ寝台」で語られた男であり、条約上は「友人にして忠実な臣下」であった。</p>



<p class="wp-block-paragraph">フィリップにとって、リチャードはただの敵ではなかった。だからこそ厄介だった。だからこそ、傷は深くなった。</p>



<p class="wp-block-paragraph"></p>



<p class="wp-block-paragraph">一方で、リチャードの側もまた、メッシーナの時点で完全にフィリップを切り捨てていたとは言いにくい。彼はフィリップを「主君」「誓約の仲間」と呼び、クリスマスにはその王と家臣団を自らの宴へ迎え入れる。後に捕囚の詩でフィリップをなお「我が主君」と呼ぶことまで考えるなら、リチャードからフィリップへ向かう感情と礼儀は、フィリップが受けた屈辱とは別の温度を持って残っている。（記事「<strong><a href="https://hist.estampie.work/richard_poem/">リチャード1世の詠んだ詩</a></strong>」参照）</p>



<p class="wp-block-paragraph">だからこそ、この関係は単純な「親密から敵対へ」ではない。メッシーナで傷つけられるまでは、二人は良好な関係のまま共に十字軍へ歩み出していた。その後、フィリップはリチャードに愛想を尽かし始め、リチャードはなお主君として呼びかけながら、その行動で傷を重ねていく。1192年にはジョンへの工作が始まり、リチャードが捕らえられた時、その長く積もった感情と政治的利害は、ついに破約と侵攻へ向かうことになる。</p>



<h2 class="wp-block-heading">参考文献・一次史料</h2>



<p class="wp-block-paragraph">Roger of Howden, <em>Gesta Regis Henrici Secundi</em>, vol.2.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Roger of Howden, <em>Chronica</em>, vols.1–3.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Gervase of Canterbury, <em>Historical Works</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Richard of Devizes, <em>Chronicle</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Ambroise, <em>Estoire de la Guerre Sainte</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Guillaume le Breton, <em>Philippide</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Rigord / Guillaume le Breton, <em>Oeuvres de Rigord et de Guillaume le Breton</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Anonymous of Béthune, <em>Histoire des ducs de Normandie</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Gislebert of Mons, <em>Chronicon Hanoniense</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Delaborde ed., <em>Recueil des actes de Philippe Auguste</em>, vol.1.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Otto of St Blasien, <em>Chronica</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Matthew Paris, <em>Chronica Majora</em>, vol.2.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Ralph of Coggeshall, <em>Chronicon Anglicanum</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">Ernoul / Bernard le Trésorier, <em>Chronique</em>.</p>



<p class="wp-block-paragraph">William of Newburgh, <em>Historia Rerum Anglicarum</em>.</p>
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