リチャード1世の庶子フィリップの謎
シェイクスピアの『ジョン王』に登場する「庶子フィリップ(Philip the Bastard)」は、獅子心王リチャード1世の息子にして劇中の主人公格であり、雄弁で勇敢な理想の騎士として描かれる。しかし、その造形の遠い原型となった実在の人物については、同時代の一次史料が語ることは驚くほど少ない。
史料上確認できる限り、リチャード1世の庶子として名が残るのはフィリップ・ド・コニャックである。母の名、生年、没年はいずれも記録がない。年代記での言及はロジャー・オブ・ハウデンの一行が事実上すべてであり、行政記録にもわずか数件の下賜が残るのみである。この記録の希薄さそのものが、彼に関する重要な史料的事実と言える。
確認できる事実の一覧
| 項目 | 内容 | 典拠 |
|---|---|---|
| 父 | リチャード1世(「rex pater suus」「filio suo notho」と明記) | ハウデン Chronica v4; AHP t.4 |
| 母 | 記録なし | ― |
| 生年 | 記録なし | ― |
| 婚姻 | コニャックの唯一の女相続人アメリー(domina Amellya)を妻に | AHP t.4, pp.21-22 |
| 所領 | 婚姻を通じてコニャックの城と名誉領を取得 | ハウデン Chronica v4; AHP t.4 |
| アメリーの死 | 子を残さず死去。城はリチャードに復帰 | AHP t.4 |
| 1199年 | 父の復讐としてリモージュ子爵を殺害 | ハウデン Chronica v4 |
| 1210年頃 | 「騎士フィリップ・ド・コニャック」としてジョン王の出納記録に登場 | Misae Roll |
| 1210-11年 | 「サラセン人のもとへ向かう」ための餞別1マルク | Misae Roll |
| 没年 | 記録なし | ― |
唯一の年代記記事:父の復讐(1199年)
庶子フィリップに関する年代記の記述は、ロジャー・オブ・ハウデンの Chronica 第4巻にある以下の一文だけである。
Eodem anno Philippus filius Ricardi regis Anglie nothus, cui praedictus rex pater suus dederat castellum et honorem de Cuinac, interfecit memoratum vicecomitem de Limoges in vindictam patris sui.
同年〔1199年〕、イングランド王リチャードの庶子フィリップ(父王からコニャックの城と名誉領を与えられていた)は、父の復讐としてリモージュ子爵を殺害した。
――ハウデン, Chronica, vol.4, p.97
この一文に含まれる情報量は多い。
「隠し子」ではなく「公認された庶子」
第一に注目すべきは、nothus(庶出の)という語とrex pater suus(父である王)という語が同じ一文の中に共存していることである。nothus は中世ラテン語で庶子を指す正式な語であり、ハウデンはフィリップの出自を隠さない。しかし同時に「父である王」が城と名誉領を与えたと書いている。つまりフィリップは噂の子でも秘密の存在でもなく、リチャードが認知し、所領を与えて公然と処遇した庶子である。隠し子というよりは、表舞台には出ないが公認されていた庶子と見るのが自然であろう。
女相続人との婚姻:「コニャックの城」の実態
第二に、フィリップには「コニャックの城と名誉領(castellum et honorem de Cuinac)」が与えられていた。ハウデンはこの一文で事実をそう要約しているが、13世紀半ばのアルフォンス・ド・ポワティエの会計記録(Comptes d'Alfonce de Poitiers)に付されたコニャック領主の回顧記録は、その経緯をはるかに詳しく伝えている。
Filius dicti domini Cognyaci fecit similiter homagium comiti Richardo Pictavensi, de Coygnyaco et pertinentiis ; quo domino Cognyaci mortuo, dedit rex Richardus comes Pictavensis dominam Amellyam unicam heredem Coygnyaci, quam habebat in ballo, ratione comitatus Pictavensis, in uxorem cuidam filio suo notho, scilicet Philippo de Coygnyaco ; qua defuncta sine liberis, tenuit dictus comes Richardus dictum castrum et eum tradidit Roberto de Torniant, senescallo suo Pictavensi.
前述のコニャック卿の息子も同様に、ポワティエ伯リチャードに対し、コニャックとその属領について臣従礼を行った。コニャック卿が死去すると、ポワティエ伯であったリチャード王は、ポワティエ伯領の権利に基づき後見していたコニャックの唯一の女相続人であるアメリー女卿(dominam Amellyam unicam heredem Coygnyaci)を、自身の庶子(filio suo notho)であるフィリップ・ド・コニャックに嫁がせた。彼女が子を残さず死去すると、リチャード伯は当該城を保持し、ポワティエのセネシャルであるロベール・ド・トルニアンに引き渡した。
――Comptes d'Alfonce de Poitiers, éd. Bardonnet, Archives historiques du Poitou, t.4 (1875), pp.21-22
この記録が明らかにする事実は重要である。
第一に、フィリップは単に「城を与えられた」のではなく、コニャック卿家の唯一の女相続人アメリーとの婚姻を通じて城を取得した。リチャードはポワティエ伯として女相続人アメリーの後見権(ballum)を有しており、その封建的権限を行使して庶子フィリップと彼女を結婚させた。中世の封建制度において、女相続人の婚姻権は領主の最も重要な権限の一つであり、リチャードはそれを自身の血統の維持と辺境支配の両方に使ったことになる。
第二に、アメリーは子を残さず死去した(qua defuncta sine liberis)。これにより城はリチャードに復帰し、セネシャルのロベール・ド・トルニアンに管理が委ねられた。フィリップはアメリーの死後、コニャックの城に対する権利を失ったことになる。ハウデンが復讐殺人の記事でフィリップに「コニャックの城と名誉領を与えられていた」と過去完了的に書いているのは、この経緯と整合する。1199年の時点でフィリップがなおコニャックを保持していたか、すでに失っていたかは確定できない。
第三に、この回顧記録はコニャック領の臣従関係を前世代から辿っている。ヘンリー2世の時代にアングレーム伯家とコニャック卿家の間で臣従関係が整理され、コニャック卿がポワティエ伯に直接臣従する体制になったこと、コニャック卿の息子がリチャードに臣従したことが記される。ハウデンの Gesta Regis Henrici Secundi にも、1170年代のアキテーヌ平定の際にコニャックの領主たちがリチャードに臣従した記事が残る。
Cognacte, et seipsos ei et ejus dominio dederunt, et homines ejus devenerunt de omnibus tenementis suis, et fidelitates ei juraverunt.
コニャックにて、彼ら〔現地の領主たち〕は自らと自らの領土をリチャードの支配に委ね、すべての保有地についてその臣下となり、忠誠を誓った。
――ハウデン, Gesta Regis Henrici Secundi, vol.1, p.101
コニャックはアングーモワとサントンジュの結節点にある軍事的要地であり、ベルトラン・ド・ボルンのシルヴェンテスにもリチャードとの関連でその名が登場する(Poésies complètes, éd. Thomas, p.62)。庶子に女相続人を娶らせてこの要地を確保するという決定は、単なる小遣いとは質が異なる。辺境拠点の掌握を血縁に託す実務的な判断であった。ただし、これはヘンリー2世の庶子ウィリアム・ロングスペー(ソールズベリー伯)のように王族的な地位に引き上げる処遇とは異なる。フィリップは王子ではなく、あくまで辺境拠点を預かる騎士として扱われていた。
二重の復讐で締めくくられる1199年項
第三に、殺害された相手は「前述のリモージュ子爵(memoratum vicecomitem de Limoges)」である。ハウデンの1199年項には、リモージュ子爵(アデマール5世)がシャリュの財宝をめぐってリチャードと対立した経緯が前段に記されており、この子爵はリチャードを死に至らしめたシャリュの包囲戦の当事者であった。つまりハウデンの1199年項は、リチャードの死後の二重の復讐で締めくくられる構成になっている。傭兵隊長マルカデウスによるリチャードを射た射手の処刑が一つ目、庶子フィリップによる子爵殺しが二つ目である。
この「二重の復讐」という構成は劇的であり、ハウデンがリムーザン方面の現地情報に独自のアクセスを持っていたことを示唆する。ただし、殺害の場所も方法も、その後のフィリップの処遇も一切記されていない。復讐そのものは記録されているが、フィリップが父リチャードを深く慕っていたのか、父の臨終に立ち会ったのかといったことは、一次史料からは何も言えない。
他の史料の沈黙
この復讐殺人について語るのはハウデンだけである。ラルフ・オブ・コゲシャル、マシュー・パリス、マーガム年代記、ラルフ・ド・ディセト、ジャーヴェイス・オブ・カンタベリー、ベテューヌの無名者、仏側のリゴール、ギヨーム・ル・ブルトンのいずれも、この復讐殺人にも庶子フィリップの存在にも触れない。
とりわけ注目すべきは、リモージュの地元年代記が沈黙していることである。サン・マルシャル修道院のベルナール・イティエの年代記(Chroniques de Saint-Martial de Limoges)にも、ジョフロワ・ド・ヴィジョワの年代記にも、子爵殺害の記事は見当たらない。仮にこの事件がリモージュ周辺で広く知られた重大事件であったなら、地元年代記の沈黙は検討すべき材料になる。
RHGF(フランス歴史記録集成)第17巻にハウデンのこの記事がほぼ同文で転載されているが、これは独立した証言ではなくハウデンからの引き写しである。同巻の索引では被害者が「Guidomarus」(ギドマール=アデマール5世の別称)と記されている。
neci traditur à Philippo filio Richardi Anglie Regis notho, ad vindicandam patris sui necem.
父の死を復讐するため、イングランド王リチャードの庶子フィリップによって殺害された。
――RHGF, t.17, p.872(索引項目)
したがって、ハウデンの孤立証言と地元年代記の沈黙をあわせて考えると、この復讐殺人に伝説的要素が混入している可能性は慎重に見ておく必要がある。20世紀の中世史学者ジャン・フロリもその著書で、ハウデンの記す庶子フィリップの復讐について「この最後の逸話は伝説的である可能性がある(ce dernier trait est peut-être légendaire)」と留保を付している。ただし、庶子フィリップの存在そのものを否定する根拠はない。ハウデンが記す父子関係と所領授与は、フロリも疑っていない。
「騎士フィリップ・ド・コニャック」:ジョン王期の財務記録
ジョン王の出納記録(Misae Roll)と近接勅令状巻(Close Roll)に、「騎士フィリップ・ド・コニャック」への下賜と支払命令が複数残る。コニャックを名乗る騎士という符合から、庶子フィリップと同定するのが通説だが、ロール自体は彼の出自を明記していない。なお、これらの記録では地名・人名の綴りに Cogniaco, Cooignac, Copniaco, Connaco, Comnac などの揺れがある。
アイルランド遠征の旅費(1210年)
Philipp de Cogniaco eunti in Hiberniam, de dono iij. li. per episcopum Wint.
アイルランドへ向かうフィリップ・ド・コニャックに対し、贈り物として3ポンド。ウィンチェスター司教を通じて。
――Rotuli de Liberate ac de Misis, p.121
1210年のジョン王のアイルランド遠征にフィリップが随行した際の旅費である。
ペヴェレルストープでの下賜
Phil. de Cooignac militi de dono xx. sol. … In ludo domini Regis ad tabulas v. sol. quos amisit.
騎士フィリップ・ド・コニャックに贈り物として20シリング。〔続項:〕王が盤上遊戯(タブラ)で負けた5シリング。
――Rotuli de Liberate ac de Misis, p.158
フィリップへの20シリングの下賜と、ジョン王が盤上遊戯(バックギャモンの類)で負けた5シリングの記録が同じ日の連続記載になっている。王の日常的な雑費の中に紛れ込む小口の下賜である。
騎士一括下賜の中の40シリング
Misae Rollのもう一箇所に、複数の騎士への一括下賜リストの中に「Phit de Copniaco xl. sol.」が含まれている。
Phit de Copniaco xl. sol.
フィリップ・ド・コニャックへ40シリング。
――Rotuli de Liberate ac de Misis, p.178
このリストではほとんどの騎士が20シリングを受け取っているのに対し、フィリップは40シリングとやや高額である。とはいえ3マルク(約40シリング)を受ける騎士も数名おり、突出した金額ではない。
「サラセン人のもとへ」(1210-11年)
Phil. de Connaco militi de dono j marca, euntibus ad Saracenos.
サラセン人のもとへ向かう騎士フィリップ・ド・コニャックへ、贈り物として1マルク。
――Rotuli de Liberate ac de Misis, p.169(ジョン治世12年〔1210-11年〕)
「サラセン人のもとへ向かう(euntibus ad Saracenos)」は聖地巡礼か十字軍従軍への餞別とみられる。1マルク(13シリング4ペンス)という金額は、渡航費としてはきわめて少額であり、餞別の一つと考えるのが自然である。
Close Rollの支払命令
近接勅令状巻(Close Roll)にも、フィリップへの支払命令が2件残る。
Libate de thauro nostro Philip de Comnac redditum quem illi dedimus ad scaccarium …
我らの財務府からフィリップ・ド・コニャックに対し、財務府において我々が彼に割り当てた収入を渡すよう命ずる。
――Rotuli Litterarum Clausarum, vol.1, p.78(11月3日、クラレンドンにて)
Libate de thauro nostro Philipp de Connac redditum …
フィリップ・ド・コニャックに対し、財務府の資金を渡すよう命ずる。
――Rotuli Litterarum Clausarum, vol.1, p.96(11月30日、クラレンドンにて。ノーサンプトン代官宛)
2件目はノーサンプトン代官(vicecomes Norhamtton)宛であり、フィリップがイングランドのノーサンプトンシャーで収入を受けていたことを示す。大陸出身の騎士がイングランドの代官を通じて定期的な支払いを受けている点は、フィリップがジョン王の宮廷騎士団に組み込まれていた証拠と言える。ただし具体的な金額は記されていない。
財務記録の全体像
コーパス内でフィリップの名が確認できる行政記録の全件を一覧する。
| 典拠 | 金額 | 文脈 |
|---|---|---|
| Misae Roll, p.121 | 3ポンド | アイルランド遠征の旅費 |
| Misae Roll, p.158 | 20シリング | ペヴェレルストープでの下賜 |
| Misae Roll, p.169 | 1マルク | 「サラセン人のもとへ」の餞別 |
| Misae Roll, p.178 | 40シリング | 騎士一括下賜 |
| Close Roll, p.78 | (額面なし) | 11月3日の財務府支払命令 |
| Close Roll, p.96 | (額面なし) | 11月30日、ノーサンプトン代官宛 |
Misae Rollの下賜合計は、3ポンド+20シリング+1マルク(13s.4d.)+40シリング=約6ポンド13シリング4ペンスである。同時代の騎士の年収が10~20ポンド程度であったことを考えると、これらはあくまで臨時の贈り物であり、フィリップの全収入ではない。Close Rollの定期支払命令の存在は、Misae Rollの小口下賜とは別に、定額の年金または収入があったことを示唆する。
少なくとも本稿で扱ったコーパス内では、1210-11年頃の「サラセン人のもとへ」の記録が、フィリップの後半生をうかがわせる最後期の足跡である。その後の消息も没年も不明である。
記録されていないこと
庶子フィリップについて記録がないことのリストは、記録があることのリストよりも長い。
- 母の名:いかなる史料にもない。ヘンリー2世の庶子ジェフリー(のちのヨーク大司教)についてはウォルター・マップが母の名「イケナイ(Ykenai)」を伝えているが、フィリップの母については完全な空白である。
- 生年と育ち:不明。リチャードの在位(1189-99年)中の年代記にも、第3回十字軍の従軍記(Itinerarium Peregrinorum、アンブロワーズの Estoire、リチャード・オブ・ディバイザス)にも登場しない。
- 没年:不明。1210-11年のMisae Rollが最後の記録。
- 子孫:妻アメリーとの間には子がなかった(「defuncta sine liberis」)。他に子がいた記録もない。
- アメリーの死の時期:不明。リチャードの生前に死去したことは確実だが、具体的な年は記録されていない。
- 十字軍への参加:記録なし。父と共に聖地にいた形跡はない。「サラセン人のもとへ」の記録が1210-11年にあるが、第3回十字軍(1189-92年)への参加を示す記録は存在しない。
ジョン王の庶子リチャードとの対照
同じ「王の庶子」でも、ジョン王の庶子リチャードはまったく異なる存在感を示す。
ベテューヌの無名者の Histoire des ducs de Normandie は、1217年のサンドウィッチ海戦について、ジョンの庶子リチャードがフランス艦隊を攻撃する場面を記している。
ロジャー・オブ・ウェンドーヴァーの Flores Historiarum はさらに詳しい。1217年、フランスの海賊ユースタス・ザ・モンクの艦隊がイングランドへ向かった際、ジョン王の庶子リチャードが迎撃し、捕らえたユースタスの首を自ら剣で刎ねたと記す。ウェンドーヴァーはこの場面でリチャードを「Richardus, filius regis Johannis nothus」と呼んでおり、ハウデンが庶子フィリップに用いた nothus の語がここでも冠されている。
この対比は際立つ。
| フィリップ・ド・コニャック | ジョン庶子リチャード | |
|---|---|---|
| 年代記の登場 | ハウデン1文のみ(孤立証言) | 複数の年代記に武勲が記録される |
| 行政記録 | 3ポンド・20シリング・40シリング・1マルクの下賜 | 海戦指揮官として記録 |
| 称号 | 「騎士(miles)」 | 記述なし(ただし艦隊指揮官として行動) |
| 父との関係 | 城と名誉領を授与されたが、宮廷での重用の記録なし | 軍事行動で実際に指揮権を行使 |
確認できるMisae Roll上の小口下賜は、合計して約6ポンド13シリングにとどまる。これだけで全収入や地位を断定することはできないが、少なくとも記録上は、宮廷内の有力者として大きく扱われた形跡は薄い。叔父ジョン王の庶子リチャードが年代記に名と武勲を複数伝えるのに対し、フィリップは確認できる範囲のジョン治世年代記にはほとんど姿を見せない。この非対称は際立っている。
コニャック領の行方:城は七たび主を変える
フィリップの妻アメリーが子なく死去した後、コニャックの城はどうなったのか。前述の Comptes d'Alfonce de Poitiers のコニャック領主回顧記録は、その後の城の転々たる経緯を驚くほど詳細に伝えている。
まず、アメリーの死後、城はリチャードに復帰し、ポワティエのセネシャルであるロベール・ド・トルニアンに管理が委ねられた。1199年にリチャードが死去すると、ロベールはジョン王のために引き続き城を保持した。
ところが、ジョン王がラ・マルシュ伯の婚約者であったアングレーム伯の娘イザベルを奪って結婚したことで大陸戦争が勃発し、ロベールは防衛しきれなくなる。彼はルノー・ド・ポンとその兄弟ポンス・ド・ミラベルに城の防衛を委ねたが、この二人は亡きアメリーとの血縁関係を主張して城を長期占拠した。回顧記録はこの主張を冷淡に退けている。
dicentes esse suum ratione consanguinitatis dicte Amellye, et non attingebant ei in aliquo gradu consanguinitatis usque ad decimum.
彼らは亡きアメリーとの血縁を理由に城は自分たちのものだと主張したが、10親等以内の血縁関係すらなかった。
――Comptes d'Alfonce de Poitiers, éd. Bardonnet, AHP t.4, pp.21-22
その後、ボ・ド・マスタシオがアングレーム伯の支援を得てルノーから城を奪い、さらにジョン王のセネシャルであるアンベール・ド・ブールが金銭で城を買い戻し、ジョン王はそれを王妃領のセネシャルであるバルテルミー・ド・ポディに引き渡す。バルテルミーはコニャックをアングレーム伯領の一部であると主張して私物化した。
ジョン王の死後、未亡人イザベル王妃がイングランドからボルドーへ戻ると、バルテルミーは彼女にコニャックを引き渡した。コニャックの住民は、王妃が息子ヘンリー3世のためにポワティエ伯領の一部として城を保持すると信じていた。しかし王妃はアングレーム伯領に属すると主張して城を私物化し、再婚相手のラ・マルシュ伯ユーグ10世に引き渡した。回顧記録の筆者はこれを明らかに不当と見なしている。
Quod castrum illa sibi aproprians et dicens illud esse de comitatu Engolismensi, quod omnes de terra illa contradicunt, tradidit isti comiti Marchie, marito suo.
彼女は当該城をアングレーム伯領であると主張して私物化したが、その地のすべての者がこれに異議を唱えていた。彼女は夫であるラ・マルシュ伯にそれを引き渡した。
――Comptes d'Alfonce de Poitiers, éd. Bardonnet, AHP t.4, pp.21-22
こうしてコニャックはリュジニャン=アングレーム家の手に渡った。1243年にはユーグ11世がコニャックを含む諸領についてフランス王に臣従を誓い(ブタリック, Saint Louis et Alfonse de Poitiers, p.63)、1268年にはその息子ギー・ド・リュジニャンが「コニャックとメルパンの領主(dominus Conipniaci et Merpini)」として登場する(モリニエ, Correspondance administrative d'Alfonse de Poitiers, vol.1, no.1005)。
リチャードの庶子が女相続人との婚姻を通じて得た城は、アメリーの死後わずか数十年で、セネシャル→地方貴族の不法占拠→金銭買収→王妃の私物化→ラ・マルシュ伯と、七たび主を変えた。この転々たる経緯こそ、12-13世紀のアキテーヌにおける封建的所有の不安定さを如実に映し出している。
一次史料から言えること、言えないこと
庶子フィリップについて一次史料から確実に言えることを整理しておく。
言えること:
- リチャード1世にはnothus(庶出の)と明記された息子フィリップがおり、「父である王(rex pater suus)」によって公然と認知されていた(ハウデン Chronica v4)
- リチャードはポワティエ伯としての後見権を行使し、コニャックの唯一の女相続人アメリーをフィリップに嫁がせた。フィリップはこの婚姻を通じてコニャックの城と名誉領を取得した(AHP t.4, pp.21-22)
- アメリーは子を残さず死去し、城はリチャードに復帰した。その後セネシャルのロベール・ド・トルニアンに委ねられ、最終的にイザベル王妃を経てラ・マルシュ伯の手に渡った(AHP t.4)
- 1199年、父を死なせたリモージュ子爵を殺害して復讐を遂げた(※ただし、ハウデンの孤立証言。リモージュ地元年代記を含む他の史料はすべて沈黙しており、伝説的要素の混入を完全には排除できない)
- ジョン治世に「騎士フィリップ・ド・コニャック」として行政記録に計6件登場し、Misae Rollの下賜(計約6ポンド13シリング)とClose Rollの定期支払命令を受けていた
- 1210年のアイルランド遠征に随行し、1210-11年に「サラセン人のもとへ」向かった
言えないこと:
- 母の名、生年、没年
- アメリーの死の具体的な時期(リチャードの生前であることは確実)
- アメリーの死後、1199年の復讐殺人の時点でフィリップがなおコニャックを保持していたか
- フィリップが父リチャードを深く愛していたかどうか
- リチャードがフィリップを特別に可愛がっていたかどうか
- フィリップが父の臨終に立ち会ったかどうか
- 復讐殺人の場所、方法、その後の政治的処理
- 十字軍への参加の有無

一次史料が描き出すフィリップ像は、「隠し子」でも「英雄的な王子」でもなく、封建制度の中で実務的に位置づけられた公認の庶子である。リチャードはポワティエ伯としての権限を使い、女相続人アメリーとの婚姻を通じてフィリップにコニャックを与えた。それは父子の情愛の表現であった可能性を排除するものではないが、史料上まず見えてくるのは、辺境支配の実務的な手段としての側面である。アメリーが子なく死ぬと城はリチャードに戻り、フィリップは所領を失った。ジョン王の宮廷では、他の大陸出身騎士と同列の小口下賜の中に名前が埋もれている。シェイクスピアの雄弁な「庶子フィリップ」は、ハウデンのたった一行から数百年後に花開いた創作である。その一行の向こうにいた実在の人物は、コニャックの城、父の復讐という一文、そして会計記録に残る数枚の硬貨の音とともに、静かに史料の闇に消えていく。
余談だが、フィリップという名も少し気になる。Philipという名は12世紀のフランス王家ではフィリップ1世、フィリップ2世と王名として定着していったが、ノルマン・アンジュー家や英語圏の王族に連なる名としては、ヘンリー、リチャード、ジェフリー、ウィリアム、ジョン、ロバート、エドワードなどほど馴染み深い名ではない。
イングランド側の人名分布から見ても、Philip は「存在しない名」ではないが、上位に来る名でもなかった。13世紀初頭イングランドの人名資料では、男性名の上位には William, Richard, John, Robert, Hugh, Roger, Walter, Thomas, Ralph, Geoffrey, Henry などが並ぶ。ある初期13世紀イングランドの877人規模のリストでは、Philipは3例のみであり、William 126例、Richard 91例、John 70例とはかなり差がある。1216〜1242年のイングランド Fine Rollsに基づく集計でも、男性名の上位10名は William, John, Richard, Robert, Henry, Ralph, Thomas, Walter, Roger, Hugh であり、Philipは入らない。つまり Philipは、イングランド側では「普通にありうるが、かなり目立たない名前」だった。
もちろん、これだけでリチャードがフランス王フィリップ2世にちなんで庶子に名を付けたと断定することはできない。だが、ノルマン・アンジュー家の王族名としてはやや脇に置かれる名であり、同時にフランス王家では王名として強い存在感を持つ名である。リチャードとフィリップ2世の関係を追っている者にとって、リチャードの庶子(リモージュ子爵殺害時に既に騎士であるとして1180~1184年頃に出生と思われる)の名が「フィリップ」であったという事実は、断定できないからこそ気になる小さな余白である。
参考文献
一次史料
- Roger of Howden, Chronica, ed. W. Stubbs, 4 vols, Rolls Series (London, 1868-71), vol.4, p.97.
- Roger of Howden, Gesta Regis Henrici Secundi, ed. W. Stubbs, 2 vols, Rolls Series (London, 1867), vol.1, p.101.
- A. Bardonnet (ed.), 'Comptes d'Alfonce de Poitiers', Archives historiques du Poitou, t.4 (Poitiers, 1875), pp.21-22.
- T. D. Hardy (ed.), Rotuli de Liberate ac de Misis et Praestitis, Regnante Johanne (London, 1844), pp.121, 158, 169, 178.
- T. D. Hardy (ed.), Rotuli Litterarum Clausarum, vol.1 (London, 1833), pp.78, 96.
- Recueil des historiens des Gaules et de la France (RHGF), t.17, pp.659, 872.
- Histoire des ducs de Normandie et des rois d'Angleterre (Anonymous of Béthune), ed. F. Michel (Paris, 1840).
- Roger of Wendover, Flores Historiarum, ed. H. O. Coxe, 5 vols (London, 1841-44).
- Bertran de Born, Poésies complètes, ed. A. Thomas (Toulouse, 1888), p.62.
- A. Molinier (ed.), Correspondance administrative d'Alfonse de Poitiers, 2 vols (Paris, 1894-1900), vol.1, no.1005.
- E. Boutaric, Saint Louis et Alfonse de Poitiers (Paris, 1870), pp.63, 509.
二次文献
- Jean Flori, Richard Cœur de Lion : le roi-chevalier (Paris, 1999), pp.463-464.